はじめに
IBMの技術メディア「IBM Think」が2026年6月15日に報じた記事をもとに、2026年カヴリ賞(神経科学部門)を受賞した神経科学者オズワルド・スチュワード氏の研究について解説します。「記憶はどこでどのように作られるのか」という問いに、分子レベルで答えた発見の内容とその意義をお伝えします。
参考記事
- タイトル: The discovery that changed how scientists think about memory
- 著者: Sascha Brodsky
- 発行元: IBM Think
- 発行日: 2026年6月15日
- URL: https://www.ibm.com/think/news/discovery-changed-how-scientists-think-about-memory-kavli-prize
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要点
- カリフォルニア大学アーバイン校のオズワルド・スチュワード氏ら4名が、2026年カヴリ賞(神経科学部門)を受賞した。賞金は100万ドルである
- スチュワード氏らは、ニューロンがシナプス近傍でタンパク質を局所合成できることを発見した。これはそれまでの「タンパク質は細胞体で作られ末端へ輸送される」という通説を覆すものである
- この発見はシナプス可塑性(記憶・学習の分子的基盤)の理解を大きく前進させ、脆弱X症候群やアルツハイマー病の研究にも応用されつつある
- スチュワード氏は、AIが情報処理に長けている一方、真のオリジナルな発見は人間の脳に固有の能力だと主張する。また「脳を理解することがAI進化に貢献する可能性が高い」と述べている
詳細解説
カヴリ賞とは、そして今回の受賞内容
カヴリ賞(Kavli Prize)は、天文学・ナノサイエンス・神経科学の3分野で卓越した業績を持つ研究者に授与される国際的な賞です。賞金は各分野で100万ドルにのぼり、科学界で最も権威ある賞のひとつとされています。
2026年の神経科学部門は、オズワルド・スチュワード氏(カリフォルニア大学アーバイン校)、クリスティン・ホルト氏、ケルシー・マーティン氏、エリン・シューマン氏の4名が共同受賞しました。IBM Thinkの報道によれば、4名の受賞理由は「ニューロン内における局所タンパク質合成の重要性を確立した発見」です。
通説を覆した「シナプスでのタンパク質合成」
記憶や学習は、ニューロン(神経細胞)どうしの接続点であるシナプスに起こる変化によって成立します。その変化には新しいタンパク質が必要ですが、長年にわたり科学者たちは「タンパク質はニューロンの細胞体(核のある中心部)で合成され、そこから末端のシナプスへ輸送される」と考えていました。
スチュワード氏らはこの通説に疑問を呈します。放射性アミノ酸(タンパク質の構成材料)を用いた実験で、タンパク質合成の活動が細胞体以外の場所で検出されたのです。電子顕微鏡による詳細な観察の結果、スパイン・シナプス(樹状突起の突起部分にある接合部)付近に、タンパク質を合成するリボソームが集積していることが明らかになりました。IBM Thinkのインタビューでスチュワード氏は当時の驚きをこう振り返っています——「スパイン・シナプスに美しいポリリボソームの集積があった。これが欠けていたミッシングリンクだと直感した」。
なぜ局所合成が重要なのか。ひとつのニューロンには数千にのぼるシナプスが枝状に広がっており、それぞれに必要なタンパク質を細胞体から届けようとすれば「輸送渋滞」が生じると考えられます。それよりも、各シナプスでメッセンジャーRNA(mRNA)を受け取り、必要なタイミングで局所的にタンパク質を作る仕組みのほうが、効率的かつ精密に機能します。この「局所合成」こそが、シナプス可塑性——シナプスの結合強度が強まったり弱まったりする現象——の分子的な根拠として現在では広く認められています。
神経疾患の研究への応用
この発見は基礎科学にとどまらず、神経疾患の理解にも影響を与えています。シナプスでのタンパク質合成に異常が生じると、複数の疾患と関連している可能性が指摘されています。
特に注目されているのが脆弱X症候群(Fragile X syndrome)です。この遺伝疾患は学習や発達に影響を与えますが、原因として「脆弱Xメッセンジャーリボ核タンパク質(FMRP)」という、mRNAおよびシナプスでのタンパク質合成と密接に関わるタンパク質の変異が知られています。IBM Thinkの記事によれば、この点で脆弱X症候群は局所タンパク質合成の異常と直接的なつながりを持つ疾患として研究が進んでいます。
またアルツハイマー病についても、スチュワード氏はプラークや神経原線維変化(タングル)に先立ち、シナプスの喪失が最初期の変化のひとつとして現れると指摘しています。シナプスがいかに生き残り、適応し、自己修復するかを理解することが、神経機能の低下を遅らせる新たな治療法の開発につながる可能性があると氏は考えています。
AIへの示唆——脳を理解することがAIを進化させる
スチュワード氏への取材の中で、IBM ThinkはAIとの関係についても問いかけています。これは、AIが科学的発見の加速に活用されている現状を踏まえた問いでしょう。
スチュワード氏は、AIが情報処理には優れているとしつつも、真にオリジナルな洞察——情報が積み上がる中から突然浮かび上がるような発想——は、いまだ人間の脳に固有の能力だという見解を示しています。そして「AIが脳の謎を解明するよりも、脳の理解がAIに新しいものをもたらす可能性の方が高い」と述べており、神経科学からコンピューターサイエンスへの知見の流れに期待を寄せています。
この視点は、脳とLLMの計算効率を比較した『Nature Neuroscience』の研究とも重なる部分があります。脳の仕組みを正確に理解することが、AI設計への還元につながるという考え方は、神経科学と情報科学の双方で注目されつつあると思います。
また氏は、新型コロナウイルス感染症によるリモートワーク期間を経て、科学的ブレークスルーは人との交流に大きく依存することを再認識したと語っています。「私たちは社会的な存在だ」というその言葉は、孤立した個人や単独のAIシステムではなく、人間の協働のなかに創造性の源泉があることを示唆しているようです。
まとめ
スチュワード氏らの発見は「記憶はニューロンの末端、シナプスそのものの近くで分子的に書き込まれる」という新しい理解をもたらしました。40年以上をかけて積み上げられたこの知見は、神経疾患の治療研究にも道を開きつつあります。AIが発達する時代にあっても、脳の仕組みを解き明かす神経科学の貢献は大きいと考えられます。今後の応用研究の動向にも注目したいと思います。
