はじめに
ハーバード・ビジネス・レビュー(HBR)が2026年4月27日、UCバークレー・ハース経営大学院のToby E. Stuart教授による論考を掲載しました。テーマは、AI時代に企業・個人・政府が直面する「長期投資の不確実性」です。本稿では、この記事の論点を整理しながら、経営判断への示唆を解説します。
参考記事
- タイトル: The Future Is Shrouded in an AI Fog
- 著者: Toby E. Stuart
- 発行元: Harvard Business Review
- 発行日: 2026年4月27日
- URL: https://hbr.org/2026/04/the-future-is-shrouded-in-an-ai-fog
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要点
- AIの急速な進化が「近未来への視界」を極端に狭め、長期投資の判断基準そのものを揺るがしている
- 教育・キャリア形成など個人の人的資本投資も、リターンの見通しが立ちにくくなっている
- SaaSを中心に、企業の「ターミナルバリュー(長期価値)」の前提が崩れつつあり、企業評価にも波及している
- Stuart教授は「オプショナリティ(選択肢を保持する柔軟性)の最大化」が不確実性時代の最善策だと論じている
詳細解説
「AI霧」とは何か——長期視界が失われる構造
Stuart教授は現在の状況を「AI霧(AI Fog)」と表現します。その意味は単純で、AIがもたらしうる変化があまりにも多岐にわたるため、3年後・5年後・10年後がどうなるかを見通せなくなっているということです。
従来、長期投資には「将来への一定の確信」が前提でした。30年物の国債を買うのは発行体の支払い能力を信じるからであり、10年かけて専門職を目指すのはその後も報酬が得られると見込むからです。HBRの表現を借りれば、「30年先が見えるときは超高層ビルと鉄道を建設し、数カ月先しか見えないときはテントと自転車を選ぶ」ということになります。
AIはこの「先の見え方」を根底から変えつつあります。Dario Amodei氏やSam Altman氏が数年以内の超知能AI到来を予測する一方、SaaSセクターの株価急落(「SaaSpocalypse」)や、主要AIリリースに連動した株式市場の乱高下が続いています。こうした出来事が積み重なることで、「10年後の当たり前」を描くことが難しくなっていると考えられます。
人的資本のジレンマ——教育投資の ROI が見えなくなる
Stuart教授が最初に取り上げるのが、教育という「最も長期の個人投資」です。医学部進学、MBAプログラムへの入学、さらには一般的な4年制大学での学びさえも、従来通りの価値を持ち続けるか判断しにくくなっていると指摘します。
例として示されるのが医師というキャリアです。2035年の「医師」が、診断医なのか、AI監視の管理者なのか、手続きの執行者なのか、あるいはそれ以外なのかが今の時点では判断できない。この不透明さが、高額な学費・長期の研修への投資を踏みとどまらせる可能性があります。実際にMBAプログラムへの出願数が今年度に大きく落ち込んでいるという調査結果も紹介されています。
ここで筆者が強調するのが「リスク」と「不確実性」の違いです。リスクは確率分布が描けるもの、不確実性は確率分布そのものが不明なもの——AI霧の本質は後者であり、これが意思決定を困難にしています。「放射線科医の残存価値は『不可欠』から『時代遅れ』まで幅広い」というStanley教授の描写は、多くのホワイトカラー職に当てはまる可能性があります。
なお、BCGの2026年労働市場予測では「AIは仕事を奪うより変える」という見方も示されており、悲観一辺倒ではありません。一方でHBRの論考は、その変化の方向性自体が読めないことの問題を強調している点が異なります。
企業評価の前提崩れ——ターミナルバリューへの疑問符
次にStunart教授が論じるのが、企業評価への影響です。株式の価値は将来のキャッシュフローを現在価値に割り引いたものですが、典型的な企業ではターミナルバリュー(長期継続価値)が時価総額の60〜80%を占めるとされています(HBRの試算)。
この前提は「事業が長く続く」という確信があって初めて成り立ちます。AI霧がその確信を揺るがすなら、ターミナルバリューを疑う根拠が生まれ、株価が崩れる——というシナリオです。SaaSセクターがその典型例として挙げられています。高い継続率と低解約率を武器に高評価を享受してきたSaaS企業も、AIがソフトウェア機能を代替・コモディティ化すれば、1ユーザーあたり高額の月額課金モデルが崩れかねないと論じています。Samsara、Cloudflareなどは現在もフリーキャッシュフローの50倍超の評価倍率で取引されており、その持続性への問いかけは経営者・投資家ともに無視できないと思います。
社内資本配分にも広がる「霧」
同様の問題は企業の内部にも波及します。多くの大企業が実施するステージゲート型の資本配分——新規投資案件を10年IRR(内部収益率)で評価する仕組み——が、先行きの不透明さの前に機能しにくくなるという点です。
Stuart教授が例示するのは、精密機械部品の受託製造企業です。3000万ドルの新ライン投資を評価するとき、2〜3年後に汎用ロボットが段取りコストを激減させ、顧客が内製化してしまう可能性をどう織り込むか——現行のDCF(割引キャッシュフロー)分析には、このような構造変化を適切に反映するメカニズムがありません。
「オプショナリティの最大化」という処方箋
HBRの論考は問題提起にとどまらず、対応策も示しています。Stuart教授が提唱するのはオプショナリティ(選択肢を保持する柔軟性)の最大化です。具体的に3つのアプローチが挙げられています。
第一に、多年度の一括投資からステージゲート型の段階的投資への転換です。「10年間のリターンは何か」という問いを「今できる最小のコミットメントで何を知ることができるか」に置き換えることが重要だとしています。ベンチャーキャピタルが長年実践してきたロジックを大企業が取り入れる時期が来ているという主張です。
第二に、アジェンティックAIの到来を前提とした組織設計です。Jack Dorseyが率いるBlockが従業員の約40%を削減した事例を挙げながら、固定された組織構造を持つことのリスクを指摘します。モジュール型チーム、柔軟なジョブデザイン、軽量な調整レイヤーなど、組織が「動ける」状態を維持することが重要だと考えられます。
第三に、フロンティアAI能力を継続的に監視する専任チームの設置です。どの製品がコモディティ化しうるか、どのワークフローを労働から切り離せるか——こうした不快な問いを、市場から突きつけられる前に自らに問い続ける体制が必要だとしています。
まとめ
Stuart教授の論考が示すのは、AIがもたらす変化の「内容」だけでなく、変化の「速さと方向の読めなさ」そのものが経営上の課題だという視点です。長期DCF・10年採用計画・高額な学位への投資——これらすべてが「未来が読める」という前提の上に成り立っています。AIがその前提を揺らしている以上、「選択肢を残す」設計の重要性はますます高まると思います。AIが職場にどう影響するかについては、Microsoftの「仕事の未来2026」レポート解説もあわせてご覧いただければと思います。
