はじめに
近年、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のワクチンで一躍注目を集めたmRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンをはじめとする、RNAを利用した医薬品開発が世界中で活発に進められています。このRNA医薬品は、従来の医薬品では難しかった様々な疾患の治療や予防に繋がる可能性を秘めていますが、その効果を最大限に引き出すためには、RNAを体内の目的の細胞まで安全かつ効率的に届ける「運び屋」の技術、すなわち薬物送達システム(DDS: Drug Delivery System)が極めて重要になります。
本稿では、この「運び屋」の開発をAI(人工知能)の力で加速させるという最新の研究について解説します。
参考記事
- タイトル: How AI could speed the development of RNA vaccines and other RNA therapies
- 発行元: MIT News
- 発行日: 2025年8月15日
- URL: https://news.mit.edu/2025/how-ai-could-speed-development-rna-vaccines-and-other-rna-therapies-0815
要点
- MITの研究チームは、AI(機械学習)を用いてRNAを送達する脂質ナノ粒子(LNP)の最適な成分構成を予測する新モデル「COMET」を開発した。
- COMETは、数千の実験データから学習し、既存のLNPよりも高い効率でRNAを細胞に届けられる新しいLNPの設計を可能にするものである。
- この技術は、特定の細胞を標的としたり、新しい素材を組み込んだり、保存安定性を高めたりするなど、多様な目的に応じたLNPの設計に応用可能である。
- 本アプローチにより、RNAワクチンや、肥満・糖尿病などの治療薬開発が大幅に加速されることが期待される。
詳細解説
RNA医薬品の課題:なぜ「運び屋」が必要なのか?
RNA医薬品は、設計図の役割を持つRNAを細胞に送り込み、その情報に基づいて体内で必要なタンパク質(病原体と戦うための抗体や、不足している酵素など)を作らせるという仕組みです。しかし、RNAは非常にデリケートな物質で、そのまま体内に投与すると、人間の体が持つ酵素によってすぐに分解されてしまいます。また、細胞の膜を自力で通過することも難しく、目的の場所にたどり着く前にその機能を失ってしまいます。
そこで不可欠となるのが、RNAを守り、細胞の中まで確実に届けるための「運び屋」です。現在、RNAワクチンの多くで利用されているのが、脂質ナノ粒子(LNP: Lipid Nanoparticle)という、脂質でできた非常に小さなカプセルのようなものです。このLNPがRNAを包み込むことで、分解から守り、細胞との融合を助け、無事に設計図を届けることができるのです。
組み合わせは無限大?LNP設計の難しさ
このLNPは、単一の物質ではなく、通常4種類の異なる役割を持つ脂質成分(イオン化可能脂質、ヘルパー脂質、コレステロール、PEG化脂質)を絶妙なバランスで混ぜ合わせて作られます。そして、それぞれの成分にはさらに多くのバリエーションが存在します。
どの成分を、どのくらいの比率で組み合わせるかによって、LNPの性能(RNAの送達効率や安全性)は大きく変わります。しかし、その組み合わせの数は天文学的な数にのぼるため、従来の研究では、有望そうな組み合わせを一つひとつ実験室で試し、評価するという、非常に時間と手間のかかる試行錯誤のプロセスが必要でした。より良い「運び屋」を見つけることは、まさに砂漠で針を探すような作業だったのです。
AIモデル「COMET」によるブレークスルー
この課題を解決するために、MITの研究チームはAI、特に機械学習の技術を活用しました。彼らが開発したのが、「COMET」と名付けられた新しい機械学習モデルです。
このモデルの興味深い点は、ChatGPTなどの大規模言語モデルを支える「Transformer」という技術に着想を得ていることです。言語モデルが「単語の組み合わせによって、文全体の意味がどのように決まるか」を学習するのと同様に、COMETは「化学成分の組み合わせによって、ナノ粒子全体の機能がどのように決まるか」を学習するように設計されています。
研究チームは、まず約3,000種類の異なるLNPを作成し、それぞれのRNA送達効率を実験で測定しました。そして、この膨大な「成分の組み合わせ」と「実験結果」のデータをCOMETに学習させました。訓練を終えたCOMETは、学習データにはない全く新しい成分の組み合わせを提示し、「この組み合わせなら、もっと効率的にRNAを届けられるはずだ」と予測できるようになったのです。
実際に、COMETが予測したLNPを実験室で作成して性能を評価したところ、その多くが訓練に用いた既存の粒子や、市販されているLNPよりも優れた性能を示すことが確認されました。これは、AIが膨大な組み合わせの中から、人間では見つけ出すのが困難な最適な設計を効率的に発見できることを意味します。
「COMET」の応用力:多様なニーズへの対応
COMETの真価は、単に効率の良いLNPを見つけるだけではありません。研究チームは、このモデルが多様な課題解決に応用できることも示しています。
- 新素材の導入: LNPの性能をさらに向上させることが知られているPBAEという高分子を第5の成分として加えた、より複雑なLNPの設計にも成功しました。
- 標的指向性: 例えば、消化器系の細胞など、特定の種類の細胞に特に届きやすいLNPを設計することも可能です。これにより、薬を届けたい場所にだけ作用させ、副作用を減らすといった応用が期待できます。
- 安定性の向上: 医薬品を長期間安定して保存するために行われる「凍結乾燥」という処理に耐えられるLNPの予測にも成功しました。
このように、COMETは様々な条件や目的に合わせて「最高の運び屋」をオーダーメイドで設計するための、強力な開発ツールとなり得るのです。
まとめ
本稿でご紹介したMITの研究は、AIとバイオテクノロジーを融合させることで、RNA医薬品開発における最大のボトルネックの一つであった「薬物送達システム(DDS)」の開発を劇的に効率化し、その可能性を大きく広げるものです。
この技術は、将来のパンデミックに備えるための新しいワクチンの迅速な開発はもちろんのこと、これまで有効な治療法が少なかった肥満や糖尿病といった生活習慣病、さらには遺伝性疾患など、多岐にわたる病気の治療に革新をもたらす可能性を秘めています。AIが最適な「運び屋」を設計し、RNAがその設計図を届ける。そんな未来の医療が、着実に現実のものとなりつつあります。