はじめに
本稿では、GoogleのRuth Porat氏(プレジデント兼最高投資責任者)が米国臨床腫瘍学会(ASCO)で行った講演に関する記事「AI breakthroughs are bringing hope to cancer research and treatment」をもとに、AI(人工知能)ががんの研究、診断、治療にどのような革命をもたらしているのかを解説します。
引用元記事
- タイトル: AI breakthroughs are bringing hope to cancer research and treatment
- 発行元: Google
- 発行日: 2025年6月4日
- URL: https://blog.google/technology/health/ruth-porat-remarks-asco/
要点
- AIは、蒸気機関やインターネットに匹敵する「汎用技術」であり、経済成長のみならず、医療、特にがん治療の分野で科学的ブレークスルーの加速、診断・早期予防の革新、治療とアウトカムの向上、サイバーセキュリティの強化に貢献する大きな可能性を秘めている。
- GoogleのAI研究は、タンパク質構造予測ツール「AlphaFold」のように、従来数十年かかっていた研究を数ヶ月単位に短縮し、がんのメカニズム解明や新薬開発を加速している。
- AIは、病理画像解析において、人間の目では見逃しがちな微小ながん細胞の発見を助け、診断の精度と速度を向上させる。これにより、より早期の治療開始が可能になる。
- AIは、医療従事者の管理業務の負担を大幅に軽減し、医師や看護師が患者ケアにより多くの時間を割けるようにする。例えば、ASCOと共同開発したガイドラインアシスタントは、膨大な量の医学情報を瞬時に整理し提示する。
- AIは、医療データの機密性を守るためのサイバーセキュリティ強化にも不可欠であり、巧妙化するサイバー攻撃から患者情報や医療システムを保護する。
- AI技術の普及は、専門医の知見を広範囲に共有可能にすることで、「医療の民主化」を促進し、地域や環境に関わらず質の高い医療へのアクセス向上に貢献する。
詳細解説
AI:社会を変革する汎用技術
AIは、単なるIT技術の一分野に留まらず、経済学者が「汎用技術(General Purpose Technologies)」と呼ぶ、社会全体に影響を及ぼす稀有な技術の一つとして認識されています。これは、かつての蒸気機関が鉱山の排水ポンプから始まり、やがて船舶、鉄道、工場へと応用範囲を広げ社会を一変させたように、AIもまた、初期の応用を超えてあらゆる産業や社会構造に革新をもたらす可能性を秘めていることを意味します。
GoogleのRuth Porat氏は、AIがもたらす四つの大きな可能性のうち、特に「科学的ブレークスルーの加速」「より良い医療提供とアウトカムの支援」「サイバーセキュリティの強化」という三点が、がん治療を含むヘルスケア分野に深く関連していると指摘しています。インターネットの父と称されるVint Cerf氏も、「AIは人間の能力を拡張できるため、インターネット以上の可能性を秘めている」と述べており、AIが私たちの未来に与えるインパクトの大きさが伺えます。
科学的ブレークスルーの加速
がん研究における最大の課題の一つは、その複雑なメカニズムを解き明かし、効果的な治療法を開発することです。AIは、このプロセスを劇的に加速させる力を持っています。
AlphaFoldの衝撃:タンパク質構造解析の革命
タンパク質はアミノ酸が鎖状につながった高分子化合物で、その鎖が複雑に折りたたまれることで特有の立体構造を形成します。この立体構造が、酵素としての触媒作用、細胞間の情報伝達、免疫応答など、タンパク質が持つ多様な機能を決定づけます。がんにおいては、遺伝子変異によってタンパク質の設計図が変わり、異常な構造や機能を持つタンパク質が作られることが、がん化や悪性化の引き金となることがあります。
つまり、私たちの体内で生命活動を支えるタンパク質は、その立体構造によって機能が決まります。そのため、タンパク質の構造を正確に理解することは、がんの原因究明や治療薬の開発に不可欠です。
しかし、従来、一つのタンパク質の構造を解明するには数年単位の膨大な時間と労力が必要でした。Google DeepMindが開発したAI「AlphaFold」は、この課題に対する画期的な解決策を提示しました。AlphaFoldは、既知のタンパク質配列からその立体構造を高精度で予測することができます。これにより、2億以上もの既知のタンパク質の構造予測をわずか数ヶ月で達成し、この成果はオープンソースとして全世界の研究者に公開されました。
AlphaFoldは、がん研究において、がん細胞におけるタンパク質の変異がその機能にどのような影響を与えるのかを迅速に理解することを可能にし、腫瘍の成長を駆動する有害なタンパク質の相互作用を妨害する新薬の設計を加速すると期待されています。
診断と早期予防の革新
がん治療において、早期発見・早期治療が極めて重要であることは言うまでもありません。AIは、診断の精度と効率を飛躍的に向上させることで、この課題に貢献します。
AIによる画像診断支援:見逃しを防ぐ「第二の目」
Googleは、リンパ節に転移したがん細胞の微小なクラスターを特定するためにAIを活用する先駆的な取り組みを行っています。ギガピクセル単位の膨大な病理スライドからがん細胞を検出するように訓練された深層学習モデルは、特に時間に制約がある状況下で見逃される可能性のある症例を含め、病理医によるスライドレビュー時間を半分に短縮し、微小転移の検出精度を大幅に向上させました。
重要なのは、AIと人間の専門家が協働することで最良の結果が得られるという点です。AIのみ、あるいは人間のみよりも、両者が協力することで診断能力は最大化されます。AIは放射線科医にとって「第二の目」として機能し、膨大な数のスキャン画像をより迅速に処理する手助けをすることで、結果的に早期発見と治療開始に繋がり、救命率の向上に貢献します。
医療の民主化:どこでも質の高い診断を
がんは初期段階では自覚症状がないことが多く、発見が遅れると治療が困難になる傾向があります。そのため、検診などによる早期発見が重要です。画像診断(CT、MRI、病理組織検査など)は早期発見に不可欠ですが、読影には高度な専門知識と経験が必要であり、微小な病変の見逃しや診断医によるばらつきも課題とされてきました。AIはこれらの課題を克服する一助となることが期待されています。
Porat氏のオンコロジスト(腫瘍専門医)であり、現ASCOのCEOでもあるCliff Hudis医師は、「AIはヘルスケアを民主化する上で極めて重要な部分であり、それによって世界中の誰もが最良の洞察にアクセスできるようになる」と述べています。
この言葉を裏付けるように、Googleは糖尿病性網膜症(失明の原因となる)の早期発見にAIを応用するプロジェクトで大きな成果を上げています。東南アジアやインドなどの地域で既に70万件以上のスキャンを実施し、今後10年間でこれを600万件以上に拡大する目標を掲げています。これにより、早期介入が可能となり多くの人々の視力が守られています。この成功は、AIががんを含む多くの疾患の早期発見と治療介入においても同様の恩恵をもたらす可能性を示唆しています。
治療とアウトカムの向上支援
AIは診断だけでなく、治療計画の最適化や医療従事者の業務効率化を通じて、治療成績(アウトカム)向上にも貢献します。
エージェントAIの登場:複雑な医療業務をサポート
現在、「エージェントAI」と呼ばれるシステムが登場しつつあります。これは、高度なAIの知能とツールへのアクセスを組み合わせることで、複雑なワークフローを理解し、推論し、行動できるシステムです。例えば、最新のがん治療の治験情報を追跡し、特定の患者に関連性の高い情報を提示したり、医師が患者と向き合う時間を増やすために事前承認書類の作成を自動で行ったりすることが考えられます。
その強力な一例として、GoogleはASCOと共同で新しい「ASCOガイドラインアシスタント」を開発しました。これは、Google Cloud CEOのThomas Kurian氏が言うように、「決して疲れず、常に学習し、膨大な量のデータを数秒でふるいにかけることができるAI搭載アシスタント」を臨床医に提供するものです。80~90ページにも及ぶような長く高密度なガイドライン文書から、明確で構造化された回答をほぼ瞬時に表示することで、臨床医の認知負荷を劇的に軽減すると評価されています。
管理業務の負担軽減:患者と向き合う時間を創出
医療現場では、医師が診療時間の3分の1を書類作成に費やし、臨床医は週に28時間も管理業務に時間を取られているという報告があります。看護師も同様に、シフト交代時などに多くの時間を管理業務に費やしています。これは、世界的な医療専門家不足という問題と相まって、医療の質を維持する上で大きな課題となっています。
生成AIツールは、これらの事務作業時間を大幅に削減する可能性を示しています。カルテの要約、検査結果の整理、予約管理、請求業務支援、リアルタイムでの患者への連絡など、多岐にわたる業務をAIが担うことで、医療従事者は本来の専門業務である患者ケアにより多くの時間を割けるようになります。ある事例では、医師が患者説明の記録効率を30%向上させ、看護師が退院報告にかかる時間を40%削減できたと報告されており、これはまさに「時間の贈り物」と言えるでしょう。
マルチモーダルAI:より精密な医療へ
現代の医療は、医師、看護師、薬剤師、技師など多くの専門職が連携して行われます(多職種連携)。しかし、それぞれの専門職が多くの事務作業や情報共有の煩雑さに追われているのが現状です。AIによる業務効率化は、これらの専門家がより円滑に連携し、患者中心の医療を実現するための鍵となります。
医療はテキスト情報だけで成り立つものではありません。医師はカルテだけでなく、患者さんの声のトーン、表情、症状など、多様な情報を総合的に解釈します。AIの世界ではこれを「マルチモーダル」と呼び、最新のAIは音声、高解像度の放射線画像や病理画像、さらにはゲノミクス(遺伝情報)といった分子レベルの情報まで、これらの多様な入力を統合的に処理できるようになってきました。これにより、より精密で効率的な医療の提供が可能になり、Hudis医師が言うように「医師と患者の関係におけるより大きな人間性」を取り戻す時間を与えることに繋がります。
サイバーセキュリティの強化
医療情報は極めて機微な個人情報であり、サイバー攻撃の主要な標的の一つとなっています。AIは、この脅威から医療機関と患者情報を守るためにも重要な役割を果たします。
医療情報を狙うサイバー攻撃の現状とAIによる防御
Protected Health Information(PHI:保護対象医療情報)とは、米国のHIPAA法などで定義される、個人の健康状態、医療提供、医療費支払いに関連する識別可能な情報のことです。これらの情報は非常に機密性が高く、漏洩や改ざんは患者のプライバシー侵害だけでなく、不適切な治療や医療過誤に繋がる危険性もあります。ランサムウェア攻撃などにより医療システムが停止すると、診療が不可能になり、患者の生命に危険が及ぶこともあります。
病院は、地球上で最も標的にされやすいデジタル環境の一つを管理していると言えます。昨年、医療データの侵害は過去最高に達し、数億件の記録が危険にさらされ、米国の人口の80%以上に影響が出ました。これらの攻撃は減速するどころか加速しており、医療データの機密性と価値の高さから、攻撃者との交渉は時間の損失、ひいては人命の損失に直結しかねません。
AIは、不正なデータ侵入から保護するための強力なクラウド環境の構築や、インフラ制御への応用を通じて、これらの脅威の早期発見と防御を可能にします。AIは、新たな脅威を監視し、多くの場合限られたデータからでも問題を予測し、未然に防ぐことに貢献します。設計段階からプライバシーとセキュリティを組み込み(セキュアバイデザイン)、AIを活用した防御策を講じることが、ますます重要になっています。
AI技術導入の第一歩
これほど多くの可能性を秘めたAI技術ですが、どのように関わり始めればよいか戸惑う方もいるかもしれません。Porat氏は、Google翻訳の進化を例に挙げ、AIの進歩がいかに速く、その恩恵がいかに大きいかを強調しています。Google翻訳は20年前に始まり、現在250言語に対応していますが、そのうち116言語は直近9ヶ月で追加されたという事実は、AIの進化が「垂直的な上昇」であり、その最前線にいることの重要性を示しています。
AIソリューションは直感的に使えるように設計されているべきであり、まずはASCOガイドラインアシスタントのようなツールを試してみることから始めることが推奨されています。AIにどのように問いかけるか(プロンプトエンジニアリング)を学ぶことが重要であり、一度に全てを習得する必要はありません。実際の使用を通じて慣れ親しむことが、AIの恩恵を受けるための第一歩となります。
まとめ
本稿では、GoogleのRuth Porat氏の講演を通じて、AIががん研究、診断、治療、そして医療全体の未来に大きな希望をもたらしていることをご紹介しました。AlphaFoldによる科学的発見の加速、AIによる診断精度の向上、医療従事者の負担軽減、サイバーセキュリティの強化、そして医療の民主化。これらはAIが可能にする変革のほんの一例に過ぎません。
Porat氏は、AlphaFoldの開発者であるDemis Hassabis氏が「なぜできないことがあるだろうか?(Why not?)」という言葉で不可能とも思える挑戦に立ち向かい、ノーベル賞を受賞したエピソードを紹介し、私たちにもこの精神を持つことを促しています。
Porat氏自身も二度のがんを経験し、その過程で「manageable(管理可能)」という言葉がいかに心の支えになったかを語っています。そして最終的な目標は、「管理可能」を超えて「予防可能」で「治癒可能」な未来です。AIという強力なツールは、その夢の実現を大きく手繰り寄せてくれるでしょう。