はじめに
ウェアラブルデバイスがなくても、スマートフォンが私たちの健康状態を把握してくれる。そんな未来がすぐそこまで来ているのかもしれません。本稿では、Google Researchが発表した「Measuring heart rate with consumer ultra-wideband radar」という記事をもとに、多くのスマートフォンに既に搭載されているUWB(超広帯域無線)という技術を使って、体に触れることなく心拍数を測定する研究について解説します。
参考記事
- タイトル: Measuring heart rate with consumer ultra-wideband radar
- 発行元: Google Research
- 発行日: 2025年7月17日
- URL: https://research.google/blog/measuring-heart-rate-with-consumer-ultra-wideband-radar/
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要点
- スマートフォンに搭載されているUWB(超広帯域無線)レーダーを用いて、非接触で心拍数を測定する技術が開発された。
- 心拍による胸の微細な動きは、呼吸や体の動きによる大きなノイズに埋もれてしまうため、高精度な測定が課題であった。
- この課題を解決するため、Googleは空間と時間の両面からレーダー信号を分析する新しい深層学習モデルを開発した。
- さらに、別のレーダー(FMCW)で学習した知識を応用する「転移学習」により、少ないデータ量でもUWBレーダーの測定精度を大幅に向上させることに成功した。
- この技術は、将来的にスマートフォンが日常的な健康管理ツールとして活用される可能性を大きく広げるものである。
詳細解説
なぜ「レーダー」で心拍数が測れるのか?
私たちの心臓は、拍動するたびに胸壁をわずかに動かしています。その動きは非常に小さいものですが、レーダーはこの微細な動きを捉えることができます。レーダーは電波を発信し、対象物から跳ね返ってきた電波を受信することで、対象物までの距離や動きを検知します。この原理を応用し、人の胸に向けて電波を発信することで、心拍による胸壁の周期的な動きを読み取り、心拍数として計測するのです。
しかし、これには大きな課題がありました。それは、呼吸による胸の動きや、体の向きを変えるなどの一般的な動きが、心拍による動きよりもはるかに大きいため、心拍の信号がノイズに埋もれてしまう点です。
前提知識:UWBとFMCWレーダー
本研究を理解するために、2種類のレーダー技術について知っておく必要があります。
- UWB(超広帯域無線)レーダー:
非常に短いパルス状の電波を使う技術です。既に多くのスマートフォンに搭載されており、車のデジタルキーや紛失防止タグ(例: AirTag)などで「正確な位置測定」のために利用されています。本研究では、このUWBのレーダーとしての潜在能力に着目しました。 - FMCW(周波数変調連続波)レーダー:
周波数が時間と共に変化する連続した電波を使う技術です。Googleのスマートディスプレイ「Nest Hub」に搭載されている睡眠センシング機能「Soli」で利用されており、睡眠中の呼吸や体の動きを分析するために使われています。Googleは、この技術によって既に大量の生体データと、それを解析するための優れたモデルを保有していました。
Googleのアプローチ:深層学習と転移学習
呼吸などの大きなノイズから、いかにして微弱な心拍の信号だけを抽出するか。Googleはこの難問を、2つの重要な技術を組み合わせることで解決しました。
1. 空間と時間を捉える新しい深層学習モデル
研究チームは、レーダー信号の特性を最大限に活かす、新しい深層学習の仕組みを開発しました。
- 空間的な絞り込み: まず、レーダーの3次元的な空間認識能力を使い、測定範囲をユーザーの胴体周辺に限定します。これにより、周囲の無関係な動きや物体からの反射を無視することができます。
- 2段階の分析モデル:
- 2D ResNet: 最初に、レーダーから得られる「時間」と「距離(空間)」の2次元データを分析し、胸壁の動きが作る細かい時空間パターンから特徴を抽出します。
- 1D ResNet: 次に、抽出された特徴から空間の情報を一旦まとめ、時間軸だけに注目します。そして、心拍特有の周期的なパターンを特定します。
この2段階のモデルによって、複雑なレーダー信号の中から心拍のリズムだけを巧みに見つけ出すことができます。
2. 知識を橋渡しする「転移学習」
もう一つの鍵が「転移学習(Transfer Learning)」です。これは、あるタスクを学習して賢くなったモデルの知識を、別の関連するタスクに応用する手法です。
Googleは、FMCWレーダーで収集した膨大なデータ(約980時間分)を使って、非常に精度の高い心拍測定モデルを既に持っていました。一方、UWBレーダーで収集できたデータは37.3時間分と、それに比べてはるかに少量でした。ゼロからUWB用のモデルを訓練するにはデータが不足していたのです。
そこで研究チームは、物理原理が全く異なるFMCWレーダーで訓練したモデルの「知識」を、UWBレーダー用のモデルに転移させることを試みました。具体的には、FMCWのデータを意図的に加工してUWBのデータ特性に近づけた上で基本モデルを訓練し、そのモデルを少量のUWBデータで微調整(ファインチューニング)しました。

スマホ搭載技術で高精度を実現
この転移学習のアプローチは、目覚ましい成果を上げました。
- ベースライン: 転移学習を使わずにUWBデータだけで訓練したモデルの平均絶対誤差(MAE)は 5.4 bpm でした。
- 転移学習後: 転移学習を適用したモデルでは、MAEが 4.1 bpm まで改善。これは25%のエラー削減に相当します。
この 4.1 bpm という精度は、米国家電協会(CTA)が定める消費者向け健康デバイスの基準(MAE 5 bpm以下)をクリアするものであり、スマートフォンに搭載可能な技術で、実用レベルの非接触心拍測定が実現できることを証明しました。

さらにこのモデルは、ユーザーが机にスマホを置いた場合でも、膝の上に置いた場合でも、同等の精度を維持できることが確認されています。
まとめ
本稿では、Google Researchが発表した、スマートフォンなどに搭載されているUWBレーダーを用いて非接触で心拍数を測定する最新技術について解説しました。
この研究の最大の意義は、「転移学習」を用いることで、物理的に異なる種類のセンサー間で知識を橋渡しし、少ないデータでも新しいデバイスで高い性能を引き出すことに成功した点にあります。これにより、新しいハードウェアが登場するたびにゼロから大規模なデータ収集を行う必要がなくなり、開発プロセスを大幅に効率化できます。
今回の研究は、まだ実際のスマートフォンを使った実世界でのテストは含まれていませんが、そのための重要な基礎を築いたと言えます。将来的には、私たちが普段使っているスマートフォンが、特別な操作やウェアラブルデバイスを必要とせずに、日常の様々な場面で心拍数などの健康状態をモニタリングしてくれるようになるかもしれません。