はじめに
本稿では、2025年初頭に突如現れ、世界のAI業界に衝撃を与えた中国のAI「DeepSeek」について、その影響と意義を詳しく解説します。DeepSeekの登場は、単なる新技術の発表に留まらず、AI開発の常識であった「規模の追求」という考え方に一石を投じ、米中の技術覇権争いの新たな局面を浮き彫りにしました。
参考記事
- タイトル: It shocked the market but has China’s DeepSeek changed AI?
- 発行元: BBC
- 著者: Lily Jamali
- 発行日: 2025年8月9
- URL: https://www.bbc.com/news/articles/c4gez754mn6o
要点
- 中国のAI企業DeepSeekが、既存の高性能モデルに匹敵するAIを、圧倒的に低いコストで開発したと発表し、市場に衝撃を与えた。
- この出来事は、AI開発において「モデルやデータ規模が大きいほど良い」とされてきた既存の常識(スケーリング則)に疑問を投げかけ、より効率的な開発手法の可能性を示した。
- DeepSeekは、コスト削減を目指す一部のスタートアップに採用される一方、中国製アプリであることからデータセキュリティに関する強い懸念も引き起こした。
- 一時的な衝撃にもかかわらず、大手テック企業は再び巨額の投資による「規模の追求」路線を強めており、DeepSeekが提示した変化は限定的であった。
- DeepSeek自身も、激化する競争や高性能半導体の不足といった課題に直面し、当初の勢いを維持することに苦戦している。
詳細解説
AI開発の常識:「スケーリング則」
DeepSeekの衝撃を理解するためには、AI開発における「スケーリング則(Scaling Law)」という考え方を理解しておく必要があります。これは、AIモデルの性能は、モデルの規模(パラメータ数)、学習データの量、そして計算資源(コンピューティングパワー)を大きくすればするほど向上するという経験則です。このため、OpenAIやGoogleなどの巨大テック企業は、莫大な資金を投じてデータセンターを建設し、AIモデルを巨大化させる開発競争を繰り広げてきました。
DeepSeekの登場と市場への衝撃
2025年1月下旬、中国のAI企業が開発したチャットボットアプリ「DeepSeek-R1」が、突如として米国のApp Storeで最もダウンロードされた無料アプリの座を獲得しました。開発元は、このAIがOpenAIのChatGPTに匹敵する性能を持ちながら、その開発コストはOpenAIが2024年だけで費やした50億ドルとは比較にならない、わずか560万ドルであったと主張しました。
「低コストで高性能」というこの主張は、AI業界の根幹を揺るがしました。市場は即座に反応し、AI用半導体の巨人であるNvidiaの株価は1日で17%(約6000億ドル)も急落し、米国株式市場史上、単一銘柄の1日の下落額として最大を記録しました。この出来事は、米国のAI覇権が盤石ではないことを示し、ベンチャーキャピタリストのマーク・アンドリーセン氏によって「AIのスプートニク・モーメント」と評されました。
AI開発のパラダイムシフトの可能性
DeepSeekが投げかけた最も重要な問いは、「AI開発は、本当に巨大な資本を投じ続けるしかないのか?」というものでした。
AIチップのスタートアップであるd-Matrix社のCEO、シド・シェス氏は、「我々は、より大きいことがより良いことだと考えられてきた道を進んでいた」と述べ、DeepSeekは「よりスマートなエンジニアリングによって、高性能なモデルを構築できる」ことを証明したと指摘しています。つまり、力任せに規模を追求するのではなく、アルゴリズムの工夫や設計の最適化によって、効率的に高い性能を引き出すアプローチの可能性を示したのです。
このコスト効率の良さから、資金的に余裕のない一部のシリコンバレーのスタートアップは、高価な米国製モデルの代わりにDeepSeekを使い続けることを選択しました。節約した資金を、人材雇用などの重要なニーズに充てているのです。
セキュリティ懸念と米国の対応
一方で、DeepSeekは中国に拠点を置く企業であるため、その利用には常にデータセキュリティのリスクがつきまといました。多くの米国企業は、従業員が業務でDeepSeekを使用することを禁止しました。これは、ユーザーが入力したデータが、アプリを通じて中国のサーバーに送られ、中国政府に共有されるのではないかという懸念によるものです。
実際、DeepSeekのプライバシーポリシーには、データが中国国内のサーバーで処理・保存される可能性があると明記されています。このため、一部の技術者は、DeepSeekのサーバーを介さず、自身のデバイス上で直接モデルを動かす(ローカルで実行する)ことで、データ漏洩のリスクを回避しようと試みています。
米国政府もこの動きを強く警戒しており、DeepSeekと中国の軍や諜報機関との関連について調査を進めていると報じられています。
巨大化路線への回帰とDeepSeekの現在
DeepSeekがもたらした衝撃は、AI業界に変化を促しました。例えば、OpenAIはDeepSeekの登場後、より小型で効率的な無料のオープンソースモデルをリリースしました。これは、巨大モデル一辺倒だった戦略からの転換と見なすことができます。
しかし、この流れは長続きしませんでした。OpenAIはその後、次世代の超巨大モデル「GPT-5」を発表し、計算インフラを大幅に増強しています。Meta(旧Facebook)などもAI開発に巨額の資金を投じ続けており、結局のところ、業界のメインストリームは再び「より多くのデータセンター、より多くのチップ、より多くの電力」を求める巨大化路線へと回帰しています。DeepSeekの登場で暴落したNvidiaの株価が、その後回復し史上最高値を更新したことは、この現実を象徴しています。
当のDeepSeek自身も、現在ではその勢いを維持するのに苦労しているようです。シドニー工科大学のマリナ・チャン准教授は、その理由として、米国と中国双方の企業との熾烈な競争に加え、次期モデル「DeepSeek-R2」の開発が高性能半導体の不足によって遅れていることを指摘しています。
まとめ
中国から現れたAI「DeepSeek」は、AI開発における「規模の追求」という常識に挑戦し、低コスト・高効率という新たな可能性を示しました。その衝撃は市場を揺るがし、米国のAI覇権に警鐘を鳴らす「スプートニク・ショック」として記憶される出来事となりました。
しかし、その後の業界の動向は、依然として巨大な資本力を持つ大手テック企業が主導する巨大化路線が根強いことを示しています。DeepSeekが起こした変革の波は、大きなうねりとはならなかったかもしれません。
それでも、DeepSeekが示した「効率性の追求」という視点は、AI技術がより広く普及していく上で不可欠な要素です。米中の技術覇権争いが続く中、今後もAI開発のあり方を問うような、第二、第三のDeepSeekが登場する可能性は十分に考えられます。