はじめに
米国では約1億人がかかりつけ医(プライマリケア医)を持っていない状況が続いています。NPRが2025年12月27日に報じた内容によれば、マサチューセッツ州の大手医療ネットワークMass General BrighamがAI搭載の遠隔医療サービス「Care Connect」を導入し、この深刻な医師不足問題への対応を試みています。本稿では、この取り組みの実態と医療現場からの評価について解説するとともに、日本の医療現場への示唆についても考察します。
参考記事
- タイトル: Can artificial intelligence help with a primary care provider shortage?
- 著者: Martha Bebinger
- 発行元: NPR
- 発行日: 2025年12月27日
- URL: https://www.npr.org/2025/12/27/nx-s1-5640874/can-artificial-intelligence-help-with-a-primary-care-provider-shortage
要点
- 米国では約1億人がプライマリケア医を持たず、マサチューセッツ州では新規患者の予約が2年待ちという状況である
- Mass General BrighamがAIチャットボットと医師を組み合わせた遠隔医療サービス「Care Connect」を2025年9月に開始した
- 患者は10分程度のAIとの対話で症状を伝え、翌日または翌々日に実際の医師とオンライン診療を受けられる
- プライマリケア医からは「壊れたシステムへのバンドエイド(応急処置)」との批判がある一方、病院側は危機への対応策の一つと位置づけている
- Stanford大学の専門家は急性疾患には有効だが、複数の慢性疾患を持つ患者には対面診療が適切と指摘している
詳細解説
深刻化するプライマリケア医不足の実態
NPRによれば、米国では約1億人がプライマリケア医(かかりつけ医)を持っていない状況です。記事で紹介された患者Tammy MacDonaldさんは、高血圧の治療を受け、最近乳がんの疑いで検査を受けていましたが、担当医が今年夏に突然亡くなりました。新しい医師を探すため10人の医師に連絡したところ、誰も新規患者を受け入れておらず、数人は2年後なら診察可能と回答したとのことです。
MacDonaldさんは「ボストンに住んでいて、素晴らしい医療が受けられるはずなのに、医師がいないという事実が理解できませんでした」と当時の驚きを語っています。処方箋の更新が必要な状況で、彼女は不安を感じていました。
このような状況は米国の医療制度が抱える構造的な問題を示していると考えられます。プライマリケア医の不足は、予防医療や慢性疾患管理の質の低下につながる可能性があり、長期的には医療費の増大を招くことが懸念されます。
日本では国民皆保険制度のもと、患者は比較的自由に医療機関を選択でき、多くの場合、数週間以内に診察を受けることが可能です。ただし、日本でも地方部での医師不足や、特定の診療科における医師の偏在は課題となっており、将来的には米国と類似した問題に直面する可能性も考えられます。また、日本では「かかりつけ医」の制度が十分に定着していないという指摘もあり、継続的な医療関係の構築という点では課題があると思います。
AI搭載遠隔医療「Care Connect」の仕組み
Mass General Brighamが提供するCare Connectは、AIチャットボット(AIエージェント)と実際の医師を組み合わせたサービスです。MacDonaldさんは病院ネットワークから受け取った案内状でこのサービスを知り、アプリをダウンロードしました。
NPRの報道では、利用の流れは次のように説明されています。患者はAIエージェントと約10分間チャットで対話し、必要な医療について説明します。その後、実際の医師とのオンライン診療を予約できます。MacDonaldさんの場合、翌日または翌々日に予約が取れたとのことです。9月のサービス開始以来、彼女は4回利用しており、時にはチャットボットとのやり取りのみで完結することもあるそうです。
Care Connectには12人の医師が配置されており、MacDonaldさんはこれまで同じ医師とオンライン診療を受けてきました。同サービスは24時間365日、医師が待機している点も特徴です。
AIを活用した医療サービスは、患者の症状を構造化して把握し、医師が限られた時間で効率的に診療できるよう支援する仕組みと言えます。ただし、MacDonaldさん自身は「これは短期的には論理的な解決策ですが、結局のところ、医療で起きているより大きな問題のしわ寄せを感じているのは患者です」と述べています。
日本における遠隔医療の現状として、2020年のコロナ禍以降、オンライン診療の規制緩和が進みましたが、初診からのオンライン診療については慎重な議論が続いています。また、日本の多くのオンライン診療サービスでは、AIチャットボットによる事前問診は導入されているものの、Care Connectのような包括的なAI活用はまだ限定的と考えられます。ただし、日本でもAI問診システムを導入する医療機関は増加しており、将来的には類似したサービスが普及する可能性があると思います。
プライマリケア医が直面する構造的課題
Mass General Brighamのプライマリケア医Michael Barnett氏は、NPRの取材に対し、現場の医師が直面している問題について語っています。時間に追われる複雑な患者診療、その後の夜間に及ぶ医療記録の更新や患者メッセージへの対応などが日常的な負担となっているとのことです。
さらに、プライマリケア医の収入は専門医(心臓専門医や麻酔科医など)と比較して平均で30〜40%低いという経済的な課題も指摘されています。これは米国の医療報酬体系が処置や検査に重点を置いており、予防医療や継続的なケアに対する評価が相対的に低いことが背景にあると考えられます。
Barnett氏は、より安価で仮想的なAI強化システムの構築に資金を費やすことが、医師のモラルを低下させ、さらに多くの医師を現場から押し出すことになると懸念しています。「実際には、より多くの患者にサービスを提供できるプライマリケアシステムを持つ能力を損なっています。それが私たちに必要なことなのに、代わりにギャップを埋めるために使っているのです。これは壊れたシステムへのバンドエイド(応急処置)のように聞こえます」とNPRに述べています。
日本の医師の労働環境についても、類似した課題が指摘されています。日本医師会の調査によれば、勤務医の長時間労働は依然として深刻で、特に救急医療や産科・小児科などでは過重労働が問題となっています。診療報酬の面では、日本は米国とは異なる診療報酬制度を採用していますが、プライマリケアを担う診療所の経営は厳しさを増しているという報告もあります。AIによる業務効率化が医師の負担軽減につながるのか、それとも人間の医師の価値を低下させるのかという議論は、日本でも今後重要になると考えられます。
医療機関側の見解と拡大計画
一方、Mass General BrighamでCare Connectを管理するHelen Ireland医師は、これは単なるバンドエイドではないと反論しています。NPRによれば、Ireland医師は、病院は患者にプライマリケアを提供する新しい方法を見つけなければならないと述べています。「これは現在の危機に対処し、遠隔医療を望む患者に本当にサービスを提供する方法のパズルの一部です」とのことです。
Care Connectは現在、米国内の他の5つの病院ネットワークでも利用可能になっています。Mass General Brighamは2025年2月にマサチューセッツ州とニューハンプシャー州の全住民にサービスを拡大する予定です。
この拡大計画は、医療アクセスの改善を目指す取り組みとして評価できる一方で、根本的な医師不足の解決にはならないという指摘も重要だと思います。
専門家による適用範囲の評価
Stanford Healthcare AI Applied Research Teamを立ち上げたSteven Lin医師は、NPRの取材に対し、Care Connectには限定的な役割があると主張しています。Lin医師はStanford大学医学部のプライマリケア部門の責任者でもあります。
「現在の状態では、このツールの最も安全な使用法は、より緊急性の高い問題、つまり上気道感染症、尿路感染症、筋骨格系の怪我、発疹などです」とLin医師は述べています。
一方で、高血圧や糖尿病など複数の慢性疾患を持つ患者については、対面で診察する通常の医師の方が適していると指摘しています。これは慢性疾患の管理には、長期的な関係性の構築や包括的な健康状態の把握が重要であるためと考えられます。
Care Connectを開発したK Health社は、緊急のニーズだけでなく、より複雑な症状を持つ患者も安全で効果的なケアを受けていると反論しています。Lin医師も一定程度これに同意しており、「そのケアが安全であるならば、これらの患者がまったくケアを受けないよりは、ケアを受ける方が良いと思います」と述べています。
この評価は、理想的な医療提供体制と現実的な選択肢のバランスを示していると言えます。完璧ではないかもしれませんが、医療へのアクセスがない状態よりは、AIを活用した遠隔医療の方が患者にとって有益である可能性を示唆しています。
日本の医療現場への適用を考える際、Lin医師が指摘する急性疾患と慢性疾患の区別は重要な示唆を含んでいると思います。日本では高齢化が進み、複数の慢性疾患を抱える患者が増加しています。こうした患者には継続的な対面診療が必要という指摘は、日本でAI遠隔医療を導入する際にも考慮すべき点と考えられます。一方で、軽症の急性疾患や健康相談については、AI活用により医療アクセスを改善し、医師の負担を軽減できる可能性があります。ただし、日本特有の医療文化として、患者が対面での診察を重視する傾向が強いことも、サービス設計において考慮が必要かもしれません。
まとめ
Mass General BrighamのCare Connectは、深刻なプライマリケア医不足に対する一つの対応策として、AIと遠隔医療を組み合わせた新しいアプローチを示しています。患者からは迅速なアクセスが評価される一方、現場の医師からは根本的な問題解決にはならないという批判もあります。
日本の医療現場にとっても、この事例は示唆に富んでいると思います。国民皆保険制度により米国とは異なる医療環境にある日本ですが、地方部での医師不足や医師の長時間労働といった課題は共通しています。AI遠隔医療の導入は、これらの課題を緩和する一つの選択肢となる可能性がありますが、Lin医師が指摘するように、急性疾患と慢性疾患での適用範囲を慎重に見極める必要があると考えられます。また、技術導入が医師の労働環境改善につながるのか、それとも医療の質を損なうのかという議論は、日本でも今後重要になると思います。
