はじめに
本稿では、がんによって声というアイデンティティを失いかけた一人の女性が、AI技術を駆使して自身の声を取り戻した事例を紹介します。失われた声がテクノロジーによってどのように再現され、彼女の人生に何をもたらしたのか。この事例を通じて、AI音声合成技術の現在地と未来、そして「声」が持つ本質的な価値について深く掘り下げていきます。
参考記事
- タイトル: Cancer stole her voice. AI, curse words and children’s books saved it
- 発行元: NPR / KQED / KFF Health News
- 発行日: 2025年7月22日
- URL: https://www.npr.org/sections/shots-health-news/2025/07/22/nx-s1-5464154/oral-cancer-laryngectomy-glossectomy-ai-voice-text-to-speech
要点
- 舌がんにより声帯と舌を全摘出した女性が、手術前に録音した自身の声(ボイスバンキング)と生成AI技術を用いて、自然な音声クローンを作成した事例である。
- このAIボイスは、テキスト読み上げアプリを通じて利用され、彼女のアイデンティティである皮肉や感情のこもった表現を可能にした。
- この技術の核は「ボイスバンキング」と「生成AIによる音声合成」であり、30分程度の音声データから個人の声の特徴を非常に忠実に再現できる。
- 現状、この技術は医療保険の適用外であり、患者が自費で負担している。保険適用には、QOL(生活の質)向上効果を示す臨床データが必要という課題がある。
- AIボイスは、患者と医療者の円滑なコミュニケーションを可能にし、治療への主体的参加を促すなど、「医学的な必要性」も示唆している。
詳細解説
声を失うということ – Sonya Sotinskyさんの場合
アリゾナ州で建築事務所を共同経営するSonya Sotinskyさんは51歳の時、ステージ4の舌がんという診断を受けました。命を救うためには、彼女の舌と声帯を含む喉頭をすべて摘出する以外に道はありませんでした。それは、二度と自分の声で話すことができなくなることを意味します。
声は、単なるコミュニケーションの道具ではありません。その人のイントネーション、話すリズム、声色には、その人だけの「個性」や「アイデンティティ」が宿っています。Sotinskyさんにとって、特に彼女らしさを表現する皮肉やユーモアのこもった言葉遣いは、失うにはあまりにも大きなものでした。
彼女は手術までの5週間で、自分の声を残すためにマイクに向かいました。これを「ボイスバンキング」と呼びます。夫や娘たちへの「お誕生日おめでとう」「あなたのことを誇りに思う」といったメッセージ、そしていつか会えるかもしれない孫たちのために、十数冊の絵本を読み聞かせました。そして、彼女の個性の核心である、痛烈な皮肉や放送禁止用語も大量に録音したのです。
AIが彼女の「声」を救うまで
手術後、Sotinskyさんは声を失いました。通常、喉頭を摘出した患者さんは、電気式人工喉頭(エレクトロラリンクス)という、喉に当てて振動音を出す装置を使います。しかし、この装置が作るのは機械的で単調な音であり、言葉の形を作る「舌」を失った彼女には、この方法ではうまく話すことができませんでした。
転機が訪れたのは2024年半ば、生成AI(Generative AI)に関する記事を読んだときでした。従来のロボットのような音声合成とは異なり、生成AIは、録音された音声データからその人特有の抑揚、リズム、感情のニュアンスまで学習し、驚くほど自然な音声クローンを生成できます。
幸いなことに、Sotinskyさんはボイスバンキングで数時間分もの音声データを保存していました。特に、絵本の読み聞かせの録音が役立ったと彼女は語ります。AI企業は、その録音データ(専門家によると30分程度の長さがあれば高品質な再現が可能)を基に、彼女の声を完全なデジタルデータとして複製しました。
現在、彼女はスマートフォンのアプリに話したい内容をタイプします。すると、ポータブルスピーカーから、かつての彼女自身の、皮肉と愛情に満ちた声が流れるのです。娘さんは「ママの生意気さが戻ってきた」と涙を流して喜んだといいます。
立ちはだかる壁 – 医療保険と制度の課題
しかし、この技術の恩恵を受けるには大きな壁がありました。医療保険が適用されないのです。Sotinskyさんが音声技術に費やした初期費用3,000ドル(約45万円)と、月額99ドル(約1万5千円)のアプリ利用料は、すべて自己負担です。保険会社は、「声を持つことは医学的に必須ではない」という見解を示しました。
この状況は、かつて乳がん手術後の乳房再建が「美容目的」と見なされ、保険適用外だった時代を彷彿とさせます。患者団体による長年の活動と、乳房再建が女性の心身の健康に与えるポジティブな影響を示すデータが積み重ねられた結果、1998年に米国で連邦法によって保険適用が義務化されました。
AIによる音声クローンも同様の道をたどる可能性があります。この技術が患者のQOL(生活の質)をいかに向上させるか、コミュニケーションを改善し、社会的な孤立やうつ病のリスクをいかに低減させるか。そうした科学的データを臨床研究によって示し、その価値を証明することが、保険適用に向けた鍵となります。現在、Sotinskyさんの話に感銘を受けた研究者たちが、臨床試験の準備を進めています。
取り戻した声がもたらしたもの
Sotinskyさんにとって、AIボイスは単に便利というだけではありませんでした。がんが再発し、肺と肝臓に転移が見つかった際、彼女は自分の声で医師や看護師と対話し、治療計画の策定に主体的に参加することができました。
彼女は、機械的な音声で話していた時よりも、医療スタッフが自分の話を真剣に聞いてくれるようになったと感じています。人間らしい声で対話できることで、彼女は一人の人間として、より深く理解されるようになったのです。これは、声がいかに「医学的に必要」であるかを物語っています。
現在、彼女は自身の経験を共有するため、2つのウェブサイト(voicebanknow.com, glossectomygirl.com)を立ち上げ、講演活動を精力的に行い、他の患者を支援しています。
まとめ
本稿で紹介したSonya Sotinskyさんの事例は、AI技術が私たちの生活を便利にするだけでなく、人間の尊厳やアイデンティティそのものを支える力を持つことを力強く示しています。手術の前に自分の声を録音しておく「ボイスバンキング」の重要性と、それを生き返らせる生成AIの可能性は、計り知れません。
一方で、この素晴らしい技術の恩恵を誰もが受けられるようにするためには、医療保険の適用といった制度的な整備が不可欠です。Sotinskyさんの挑戦は、テクノロジーと医療、そして社会制度がどのように連携していくべきかという、重要な問いを私たちに投げかけています。
声に障害を持つ人々にとって、この技術は未来を照らす希望の光となるでしょう。今後の研究と社会的な議論の進展に、大きな期待が寄せられます。