[ニュース解説]AIと伝統医療の融合:世界が注目する「新しいケアの形」とその課題

目次

はじめに

 本稿では、世界保健機関(WHO)、国際電気通信連合(ITU)、世界知的所有権機関(WIPO)が2025年7月11日に共同で発表した技術概要報告書「Mapping the application of artificial intelligence in traditional medicine」を基に、AI(人工知能)と伝統医療の融合がもたらす未来の可能性と、それに伴う重要な課題について解説します。

引用元記事

要点

  • AIは、伝統医療をより安全で、個別化され、効果的かつアクセスしやすい形に変革する大きな可能性を秘めている。
  • WHO、ITU、WIPOは、AIを伝統医療へ責任ある形で活用するための技術概要を発表し、そのロードマップを示した。
  • AIの具体的な活用事例として、個別化医療(例:アーユルヴェーダゲノミクス)、創薬、生物多様性の保全などが挙げられる。
  • 技術活用の前提として、質の高いデータ、文化遺産やデータ主権の保護、そして特に先住民の権利尊重が極めて重要な倫理的課題である。
  • 報告書は、包括的なエコシステムへの投資、法的枠組みの整備、医療従事者やコミュニティの能力構築など、すべての関係者に対する具体的な行動を喚起している。

詳細解説

伝統医療の新たな時代とAIの驚くべき可能性

 まず、「伝統・補完・統合医療(TCIM)」という言葉について説明します。これは、漢方、鍼灸、アーユルヴェーダ、ホメオパシーなど、各地域の文化や歴史に根差した伝統的な医療や健康法を幅広く指すものです。報告書によると、TCIMは世界170カ国で実践され、数十億人もの人々に利用されています。近年、病気の治療だけでなく予防や健康増進を重視するホリスティックな健康観への関心が高まり、TCIMの人気は世界的に拡大しています。

 この伝統的な知恵の宝庫に、AIという最先端技術が融合することで、これまでにない革新が起ころうとしています。報告書では、すでに世界で始まっている具体的な事例が紹介されています。

  • 個別化医療の深化: インドの伝統医療アーユルヴェーダとゲノム科学を組み合わせた「アーユルヴェーダゲノミクス」において、AIが診断を支援しています。個人の体質や遺伝子情報に基づき、最適な治療法を提案することが可能になります。
  • 創薬と生物多様性の保全: ガーナや南アフリカでは、AIの機械学習モデルを用いて、薬効を持つ可能性のある植物を特定する研究が進められています。これにより、新たな治療薬の開発が加速するだけでなく、貴重な薬用植物が生息する生態系の保護にも繋がります。
  • 新たな治療法の発見: 大韓民国では、AIを用いて伝統的な薬の化合物を分析し、血液疾患の治療に応用する研究が行われています。

 このように、AIは伝統医療が持つ経験的な知識をデータとして解析し、科学的な裏付けを与えることで、その価値をさらに高める力を持っているのです。

技術革新を支える倫理的な基盤:「バイオパイラシー」と知的財産

 AIの能力を最大限に引き出すには、質の高い、偏りのないデータが不可欠です。しかし、伝統医療の知識は、特定の地域やコミュニティ、特に先住民によって長年受け継がれてきた文化遺産そのものです。そのため、その知識やデータをどう扱うかについては、非常に慎重な倫理的配慮が求められます。

 ここで重要になるのが「バイオパイラシー(生物資源の盗賊行為)」という問題です。これは、先進国の研究機関や企業が、開発途上国の生物資源や、それに関連する伝統的知識を、その地域やコミュニティに正当な対価を支払うことなく不正に利用し、特許などを取得してしまう行為を指します。

 この問題を防ぐため、報告書ではインドの「伝統的知識デジタルライブラリ」のような取り組みを高く評価しています。これは、インド古来の医学知識をデジタル化し、データベースとして保護することで、海外での不当な特許取得を防ぐものです。AIは、こうした膨大な知識の保存、整理、そして保護を加速させる強力なツールとなり得ます。

 知的所有権の専門機関であるWIPOは、「知的財産は、AIを伝統医療に統合するための重要なツールです」と述べ、伝統的知識が公正に扱われ、その恩恵が知識を生み出したコミュニティにも還元される仕組みの重要性を強調しています。

コミュニティの権利を守るために:データ主権の重要性

 本報告書が最も強く警鐘を鳴らしている点の一つが、「先住民データ主権(IDSov)」の尊重です。これは、先住民に関するデータは、その収集、所有、利用、管理に至るまで、先住民自身がコントロールする権利を持つという考え方です。

 AI開発が、新たな形の搾取になってはなりません。そのためには、「自由な、事前の、十分な情報に基づく同意(FPIC)」の原則が不可欠です。つまり、AI開発のために伝統的知識を利用する際は、必ずその知識を持つコミュニティから、十分な情報提供を受けた上で、自由意志による明確な同意を得なければならない、ということです。

 WHOのユキコ・ナカタニ博士は、「AIが新たな搾取のフロンティアになってはなりません。私たちは、先住民や地域社会が保護されるだけでなく、伝統医療におけるAIの未来を形作る上で積極的なパートナーであることを保証しなければなりません」と述べています。

世界に向けた5つの行動喚起

 TCIMの市場規模は、2025年には約6000億米ドルに達すると予測されており、AIの活用はこの成長をさらに加速させる可能性があります。この大きな機会を逃さず、同時にリスクを管理するために、報告書はすべての関係者(政府、研究者、企業、医療従事者など)に対し、以下の5つの行動を呼びかけています。

  1. 包括的なAIエコシステムの構築: 文化の多様性と先住民データ主権を尊重する、開かれたAI開発環境に投資すること。
  2. 国内政策と法的枠組みの整備: 各国が、伝統医療におけるAI利用に特化した法律やルールを整備すること。
  3. 能力構築とデジタルリテラシーの向上: 伝統医療の従事者やコミュニティが、AI技術を理解し、活用できるような教育やトレーニングを行うこと。
  4. グローバル基準の確立: データの品質、相互運用性、倫理的なAI利用に関する世界共通の基準を作ること。
  5. 伝統的知識の保護と利益配分: AIを活用したデジタルリポジトリ(知識の保管庫)を構築し、そこから得られる利益が知識の提供元に公正に配分されるモデルを確立すること。

まとめ

 本稿で解説したように、AIと伝統医療の融合は、個別化医療の実現や新たな創薬など、私たちの健康とウェルビーイングに貢献する計り知れない可能性を秘めています。それは、何世紀にもわたって培われてきた人類の知恵と、最先端のテクノロジーが手を取り合う、新しいケアの時代の幕開けと言えるでしょう。

 しかし、その未来を実現するためには、技術の進歩と倫理的な配慮、そして文化や伝統への深い敬意が不可欠です。特に、伝統的知識の源泉であるコミュニティの権利を守り、データが公正に扱われることを保証する仕組み作りが急務です。

 この報告書は、私たちがAIという強力なツールを手に、過去の知恵を尊重し、現在を生きる人々を力づけ、そしてすべての人にとってより健康で公平な未来をいかにして築いていくべきか、その重要な道筋を示しています。

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