はじめに
近年、AI(人工知能)技術は目覚ましい発展を遂げ、様々な分野で活用が進んでいます。特に、医療・ヘルスケア分野におけるAIの導入は、業務効率化や医療の質向上に貢献すると期待されています。本稿では、米国の巨大ヘルスケア企業であるユナイテッドヘルス・グループ(UnitedHealth Group)が、保険金請求処理を含む1,000ものAI活用事例を実践しているという記事を取り上げ、その内容を詳しく解説します。
引用元記事
- タイトル: UnitedHealth Now Has 1,000 AI Use Cases, Including in Claims
- 発行元: The Wall Street Journal
- 発行日: 2025年5月5日
- URL: https://www.wsj.com/articles/unitedhealth-now-has-1-000-ai-use-cases-including-in-claims-f3387ca3
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要点
- ユナイテッドヘルス・グループは、保険、医療提供、薬局の各部門にわたり、1,000件のAIアプリケーションを本番環境で運用しています。
- 活用事例には、診察時の会話の文字起こし、データ要約、保険金請求処理の支援、顧客向けチャットボットなどが含まれます。
- 同社のエンジニア約20,000人も、ソフトウェア開発にAIを活用しています。
- 導入されているAIのうち、半分は生成AI、半分は従来のAIです。
- 保険金請求の90%以上はソフトウェアによって自動判定(auto-adjudication)されていますが、AIが単独で請求を拒否することはありません。
- AIは、情報が不足している請求(全体の約10%)について、不足情報を検索し、承認または人間の担当者へエスカレーションする役割を担う計画です。
- AIの活用は、医師の診断支援(診断効率が2倍向上との初期結果)や、患者の潜在的な未診断疾患の特定にも及んでいます。
- 同社は「責任あるAI委員会」を設置し、AIのパフォーマンス、公平性、バイアスをレビューしています。
- AI導入には、司法省による調査や集団訴訟といった社会的な監視や課題も伴います。
詳細解説
ユナイテッドヘルスにおけるAI活用の現状
ユナイテッドヘルス・グループは、米国の医療保険最大手であり、医療サービス提供(Optum部門)や薬剤給付管理(PBM)なども手掛ける巨大企業です。本稿で取り上げる記事によると、同社はすでに1,000ものAI活用事例を実用化しており、その範囲は保険事業から医療現場、薬局運営まで多岐にわたります。
具体的な活用例としては、まず事務作業の効率化が挙げられます。医師と患者の会話をAIが自動で記録・文字起こししたり、膨大な医療データを要約したりすることで、医療従事者の負担を軽減しています。また、顧客からの問い合わせに対応するチャットボットにもAIが活用されており、2025年第1四半期には1,800万件の検索を支援したと報告されています。さらに、同社の約2万人のエンジニアが、AIの支援を受けてソフトウェア開発を行っている点も注目に値します。
AIの種類と役割:生成AIと従来型AI
同社が導入しているAIは、半分が生成AI、もう半分が従来型のAIであると、最高デジタル・技術責任者のSandeep Dadlani氏は述べています。
- 従来型AI(Traditional AI): 特定のパターンやルールに基づいてタスクを実行するAIです。例えば、過去のデータから特定の傾向を学習し、将来の結果を予測したり、画像を分類したりするのに使われます。ユナイテッドヘルスでは、保険金請求の自動判定の一部(後述)や、過去のデータに基づく分析などに活用されていると考えられます。
- 生成AI(Generative AI): テキスト、画像、音声などを新たに生成する能力を持つAIです。ChatGPTなどが有名です。ユナイテッドヘルスでは、会話の文字起こし、データ要約、チャットボットの応答生成、ソフトウェアコードの生成などに活用されていると推測されます。
このように、目的に応じて異なる種類のAIを使い分けていることが、同社のAI戦略の特徴と言えるでしょう。
保険金請求処理におけるAI:効率化と懸念点
保険金請求処理は、保険会社にとって中核業務の一つです。ユナイテッドヘルスでは、年間処理される請求の90%以上が「自動判定(auto-adjudication)」されています。これは、提出された情報に基づいてソフトウェアが自動的に支払い決定を行うプロセスです。多くの場合、これはAIを用いないルールベースの自動化ですが、ごく一部のケースでは機械学習(従来型AIの一種)が補助的に使われているとのことです。
重要な点として、Dadlani氏は「AIが単独で保険金請求を拒否することは決してない」と明言しています。 これは、AIの判断ミスによる不当な請求拒否を防ぐための重要な方針です。
一方で、自動判定できない約10%の請求(多くは情報不足が原因)に対して、生成AIを活用する計画があります。このAIは、社内の様々なシステムから不足している情報(例えば、雇用主が提供する福利厚生ポリシーなど)を検索し、補完する役割を担います。情報が見つかればAIが請求を承認することもありますが、判断が難しい場合は人間の担当者に処理を引き継ぎます。これにより、処理の迅速化が期待されます。
しかし、AIの保険金請求への利用には懸念も存在します。記事では、2023年に「欠陥のあるAIアルゴリズムを使用して請求を不当に拒否した」として集団訴訟が起こされたことに触れています(一部の訴えは棄却されたものの、訴訟自体は継続中)。また、市場調査会社ガートナーのアナリストは、医療保険におけるAIの誤りは「生死に関わる可能性がある」と指摘し、技術への信頼性の低さから導入が慎重に進んでいる現状を述べています。
臨床現場でのAI活用と倫理的配慮
ユナイテッドヘルスは、事務処理だけでなく、臨床現場でのAI活用も進めています。Optum部門の医師は、患者の同意を得た上で、診察内容を記録・文字起こしするAIツールを利用しています。さらに、AIが患者の医療記録を分析し、潜在的に見逃されている可能性のある疾患を特定し、医師に診断の推奨を行う取り組みも行われています。初期の結果では、医師の診断効率が2倍向上したとされています。
このように、AIは診断支援においても大きな可能性を秘めていますが、同時に倫理的な課題やリスクも伴います。ユナイテッドヘルスは、社内外の専門家(臨床医、プライバシー・セキュリティ専門家、法律家、臨床倫理学者、技術者など)約20〜25名で構成される「責任あるAI委員会(Responsible AI board)」を設置し、AI利用におけるパフォーマンス、公平性、バイアスなどを厳しく審査していると強調しています。これは、AIを責任ある形で活用するための重要な取り組みと言えます。
日本への影響と考慮すべきこと
ユナイテッドヘルスの事例は、ヘルスケア企業におけるAI活用の最前線を示すものです。これは、日本の医療・保険業界にとっても他人事ではありません。
- 医療・保険業務の効率化: 日本でも、医師や看護師の長時間労働、事務作業の負担増が課題となっています。AIによる会話の文字起こし、データ入力・要約、保険請求処理の補助などは、日本の医療現場や保険会社の業務効率化に貢献する可能性があります。特に、人手不足が深刻化する中で、AIは重要な解決策の一つとなり得ます。
- 診断支援と医療の質向上: AIによる画像診断支援や診断補助は、日本でも研究・導入が進みつつあります。ユナイテッドヘルスのように、電子カルテ情報を解析して未診断疾患の可能性を指摘するAIは、早期発見・早期治療につながり、医療の質を向上させる可能性があります。
- 倫理的・社会的な課題への対応: 米国で起きているような、AIによる請求拒否への懸念や訴訟リスク、診断におけるバイアスの問題は、日本でも起こりえます。AIを導入する際には、ユナイテッドヘルスの「責任あるAI委員会」のようなガバナンス体制を構築し、透明性、公平性、説明責任を確保することが不可欠です。また、患者のプライバシー保護にも最大限の配慮が必要です。
- データ活用の基盤整備: AIを効果的に活用するには、質の高い医療データが大量に必要です。日本では、医療機関ごとにシステムが異なり、データの標準化や連携が十分に進んでいない側面があります。AI活用を推進するためには、データ基盤の整備や標準化に向けた取り組みが一層重要になります。
- 国民皆保険制度との整合性: 日本は国民皆保険制度の下で、公平な医療アクセスが重視されています。AI導入によって、医療の質やアクセスに格差が生じないよう、制度設計や運用面での慎重な検討が求められます。
ユナイテッドヘルスの取り組みは、AIがもたらす恩恵と課題の両側面を示唆しています。日本においても、これらの動向を注視し、技術のメリットを最大限に活かしつつ、リスクを適切に管理していくための議論と準備を進めることが重要です。
まとめ
本稿では、米国のユナイテッドヘルス・グループが保険金請求処理や臨床支援など、多岐にわたる分野で1,000件ものAI活用を進めている事例を紹介しました。AIは、業務効率化や診断支援において大きな可能性を示す一方で、請求拒否への懸念や倫理的な課題も浮き彫りになっています。同社は「責任あるAI委員会」を設置するなど、慎重な姿勢で導入を進めています。 この事例は、日本の医療・保険業界にとっても重要な示唆を与えます。AI導入による効率化や医療の質向上への期待は大きいものの、倫理的な配慮、データ基盤整備、国民皆保険制度との整合性など、克服すべき課題も少なくありません。AIという強力なツールを、いかに社会全体の利益のために、安全かつ公平に活用していくか。今後の技術開発と社会的な議論の深化が求められます。
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