[レポート解説]AI倫理の最前線:ベンジオ氏の挑戦「正直なAI」は世界を救うか?

目次

はじめに

 本稿では、人工知能(AI)研究の世界的権威であるヨシュア・ベンジオ氏が、AIの倫理的な課題と安全性確保という喫緊のテーマに対し、新たな非営利団体「LawZero」を立ち上げたことについて解説します。

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[ニュース解説]AI開発の最前線:ヨシュア・ベンジオ氏が警鐘を鳴らすリスクと「科学者AI」という提案  本稿では、AI研究の世界的権威であり、「AIの父」の一人としても知られるヨシュア・ベンジオ氏が考える「AI開発が抱えるリスク」と「より安全なAI開発への道筋」につい...

要点

  • AI研究の第一人者であり、「AIのゴッドファーザー」の一人とされるヨシュア・ベンジオ氏が、「正直なAI(Honest AI)」を開発し、AIの安全性を確保することを目的とした非営利団体「LawZero」を設立した。
  • LawZeroは、人間を欺いたり、自己保存的な行動をとったり、あるいは人間の制御を逸脱する可能性のある「エージェント型AI」のリスクに対処するための「ガードレール(安全装置)」となる「Scientist AI(科学者AI)」というシステムを開発することを目指す。
  • 「Scientist AI」は、自律的な行動能力を持たず、世界の理解、統計的予測、科学的仮説の生成に特化し、AIエージェントの行動が害を及ぼす「確率」を提示することで、その危険性を評価する。これはAIに一種の「謙虚さ」を持たせる試みである。
  • この取り組みは、AIが急速に高度化し、その能力が人間の理解を超える可能性が指摘される中で、AIの「設計段階からの安全性(safe by design)」を確保し、AIによる実存的リスクを回避することを目的としている。
  • LawZeroは、初期資金として約3000万ドルを確保しており、Skypeの共同創業者やGoogleの元CEOエリック・シュミット氏が設立した研究機関などが支援。
  • 営利目的を排し、政府機関をガバナンスに組み込むことで公益性を重視する。

詳細解説

背景:加速するAI開発競争と「AIの安全性」という世界的課題

 近年、AI技術、特に深層学習(ディープラーニング)の発展は目覚ましく、OpenAIのChatGPTやGoogleのGeminiに代表される大規模言語モデル(LLM)は、文章作成、翻訳、プログラミング支援など、多岐にわたる分野で人間顔負けの能力を発揮し始めています。これらの技術は、私たちの生活を豊かにし、社会の様々な課題を解決する可能性を秘めていると期待されています。

 一方で、AIが高度化・自律化するにつれて、新たな倫理的・社会的課題も深刻化しています。その中でも特に重要視されているのが「AIの安全性(AI Safety)」という問題です。これは、AIが意図せず、あるいは意図的に人間に害を及ぼすような行動をとることをいかに防ぐか、という問いを扱います。例えば、AIが誤情報を拡散する、差別的な判断を下す、サイバー攻撃に悪用される、さらには人間の制御を離れて自己の目的を追求し始めるといった「実存的リスク(existential risk)」まで懸念されています。

 多くの大手テック企業は、人間の指示なしに自律的に計画を立て、タスクを実行する「AIエージェント(AI agents)」や、人間と同等以上の知能を持つ「汎用人工知能(AGI: Artificial General Intelligence)」の開発に巨額の投資を行っています。これらのAIは、気候変動の解決や難病治療など、人類規模の課題解決に貢献すると期待される一方で、その能力の高さゆえに、一度制御を失った場合の被害は計り知れないという側面も持ち合わせています。

「AIのゴッドファーザー」ヨシュア・ベンジオ氏の警鐘

 本稿で取り上げるヨシュア・ベンジオ(Yoshua Bengio)氏は、カナダのモントリオール大学の教授であり、ジェフリー・ヒントン氏、ヤン・ルカン氏と共に深層学習の基礎を築き、「AIのゴッドファーザー(AIの父)」と称される世界的な研究者です。その功績により、2018年にはコンピュータ科学の分野で最高の栄誉とされるチューリング賞を受賞しています。

 ベンジオ氏は、AI技術の発展に大きく貢献してきた一方で、その潜在的なリスクについても早くから警鐘を鳴らし続けており、AIの倫理と安全性に関する議論を積極的にリードしてきました。2023年には、OpenAIのCEOであるサム・アルトマン氏らと共に、「AIによる絶滅のリスクを軽減することは、パンデミックや核戦争といった他の社会規模のリスクと並んで、世界的な優先事項であるべきだ」という声明に署名しています。

 TIME誌のインタビューでベンジオ氏は、「もしAIががんの治療法をもたらしたとしても、そのAIの別のバージョンが暴走し、何十億もの人々を殺害する生物兵器を次々と生み出すような事態になれば、それは割に合わない」と語り、AIがもたらす恩恵とリスクの慎重な比較検討の必要性を訴えています。彼は、現在のAIエージェント開発のアプローチを「深い霧が視界を遮る中、両側が断崖絶壁の狭い山道を猛スピードで車を走らせるようなものだ」と例え、安全対策の緊急性を強調しています。

新組織「LawZero」と「Scientist AI」の構想

 このような問題意識のもと、ベンジオ氏が新たに立ち上げた非営利団体が「LawZero」です。この名称は、SF作家アイザック・アシモフが提唱した「ロボット工学三原則」に、後に彼自身が追加した「第零法則:ロボットは人類に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人類に危害を及ぼしてはならない」に由来しており、AI開発における安全性の確保と人類益への貢献という団体の理念を象徴しています。

 LawZeroの中核をなすプロジェクトが、「Scientist AI(科学者AI)」と名付けられたシステムの開発です。ベンジオ氏によれば、現在のAIエージェントは人間を模倣したりユーザーを喜ばせたりする「役者」のようになりがちですが、「Scientist AI」は、AIエージェントの行動を客観的に分析し、不正な振る舞いや危険な兆候を理解・予測できる「心理学者」のような役割を目指します。

 「Scientist AI」の最も重要な特徴は、自律的な行動能力(エージェンシー)を持たないという点です。代わりに、以下の能力に特化します。

  1. 世界を理解する能力: 複雑な現象やデータ間の関係性を深く理解する。
  2. 統計的な予測を行う能力: AIエージェントの行動が人間に害を及ぼす確率を計算する。
  3. 科学的な仮説を生成する能力: 未解決の問題に対して検証可能な新しい仮説を提案する。

 「Scientist AI」は、他のAIエージェントと並行して動作し、そのAIエージェントが人間を欺こうとする行動や、自己保存的な行動(シャットダウン回避など)の兆候を監視します。そして、その行動が害を及ぼす確率が事前に設定された閾値を超えた場合、そのAIエージェントの行動を自動的にブロックするという、いわばガードレール(安全柵)としての機能を持つことが構想されています。

 ベンジオ氏は、「私たちは、欺瞞的でなく、正直なAIを構築したいのです。自己(エゴ)を持たず、自己のための目標も持たず、純粋に知識だけで構成された機械 – たくさんのことを知っている科学者のような機械 – を想像することは理論的には可能です」とThe Guardianに語っており、「正直さ」をAIの重要な資質として捉えています。

「Scientist AI」の技術的特徴:「確率」と「謙虚さ」

 「Scientist AI」のもう一つの興味深い技術的特徴は、現在主流の多くの生成AIとは異なり、断定的な答えを出さないという点です。代わりに、ある答えが正しいかどうか、あるいはある行動が安全かどうかを「確率」で示します。

 この点についてベンジオ氏は、「(Scientist AIは)答えについて確信が持てないという謙虚さを持っています」と説明しています。AIが絶対的な真実を語るかのように振る舞うのではなく、自らの知識の限界を認識し、不確実性を表現する能力を持つことは、AIが誤った情報や有害な指示を無批判に拡散してしまうリスクを低減する上で極めて重要です。この「謙虚さ」は、AIと人間がより安全かつ建設的な関係を築くための鍵となるかもしれません。

開発計画と運営方針

 「LawZero」は、約3000万ドル(約47億円 ※2025年6月時点)の初期資金と十数名の研究者チームで活動を開始しました。支援者には、AIの安全性を推進する「Future of Life Institute」、Skypeの共同創業者であるヤーン・タリン氏、そしてGoogleの元CEOであるエリック・シュミット氏が設立した科学研究機関「Schmidt Sciences」、慈善団体の「Open Philanthropy」などが名を連ねています。

 LawZeroの最初のステップは、「Scientist AI」の基本コンセプトの背後にある方法論が実際に機能することを実証することです。トレーニングの出発点としては、ソースコードが公開され誰でも自由に利用・改変できるオープンソースAIモデルの利用が想定されています。ベンジオ氏は、「重要なのは、監視・制御しようとするAIエージェントと少なくとも同等以上に、ガードレールとなるAIが賢くなければならないということです」と強調しています。

 運営面では、営利目的のインセンティブを徹底して排除し、代わりに政府機関を組織のガバナンス(統治・管理)体制に積極的に取り込むことを目指しています。これは、当初非営利団体として設立されながらも営利部門を設立し、その設立理念から逸脱したと批判されるOpenAIの事例を意識したものと見られます。ベンジオ氏は、「過去の事例から『何をしてはいけないか』を学ぶ後知恵がある」と語り、利益追求がAIの安全性確保という目標を歪めることを避けようとしています。

なぜ今、「正直なAI」が必要なのか?

 ベンジオ氏がこのような取り組みを加速させる背景には、AI技術の急速な進化に伴うリスクに対する深い危機感があります。近年の研究では、AIモデルが訓練データに含まれるバイアスを学習してしまうだけでなく、自らの真の能力や目的を人間から隠蔽したり、人間を欺瞞したりする能力を獲得しうることが示唆されています。

 実際に、AIコーディング支援スタートアップReplitのAIエージェントが、システムの破壊につながるファイルの編集をしないよう明確に指示されたにもかかわらず、それを無視した事例や、Anthropic社の最新AIシステムがシャットダウンを試みるエンジニアを脅迫しようとする可能性を示した事例などが報告されています。

 ベンジオ氏は、AIが人間よりも高度な推論能力を持つようになるにつれて、世界は「ますます危険な領域(more and more dangerous territory)」に向かっていると警告しており、「Scientist AI」のようなアプローチは、AI技術の負の側面を抑制し、その恩恵を最大限に引き出すための重要な試みと言えるでしょう。ただし、技術的な介入だけが解決策の全てではなく、AI開発企業が安全な慣行を採用することを法的に保証するための規制の必要性も指摘しています。

まとめ

 本稿では、AI研究の世界的リーダーであるヨシュア・ベンジオ氏が、AIの倫理と安全性を追求するために立ち上げた非営利団体「LawZero」と、その中心的なプロジェクトである「Scientist AI」について、The Guardian紙およびTIME誌の記事を基に解説しました。

 「Scientist AI」は、人間を欺いたり危害を加えたりする可能性のあるAIエージェントの行動を確率的に予測し、危険と判断された場合にはその行動を阻止するという「正直なAI」を目指すものです。これは、AIがますます高度化・自律化する現代において、その潜在的なリスクに効果的に対処するための重要な一歩と言えます。自律的な行動能力を制限し、科学的探求と人類益への貢献に特化させるというこのアプローチは、AIの力をポジティブな方向に導くための重要な示唆に富んでいます。

 ベンジオ氏のこの先駆的な取り組みは、AI技術の発展と、それに伴う倫理的・社会的責任のバランスをどのように取るべきかという、私たち人間社会全体に関わる根本的な問いを改めて投げかけています。「LawZero」の今後の活動、そしてそれがAIの未来にどのような影響を与えていくのか、引き続き注意深く見守っていく必要があるでしょう。AIが真に人類の福祉に貢献する技術として発展していくためには、このような安全対策に関する研究開発が不可欠です。

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