はじめに
本稿では、近年のAI開発、特に大規模言語モデル(LLM)の分野で注目を集めているGoogleの数値計算ライブラリ「JAX」が、ロボティクスの世界でどのように活用され、研究開発を加速させているのかを解説します。
特に、複雑なロボットの動きを制御し、シミュレーションする上で課題となる「計算効率」と、従来からの「モデルベース制御」と最新の「学習ベース手法」を組み合わせる際の「開発の柔軟性」という2つの観点から、JAXの可能性を探ります。
参考記事
- タイトル: A roboticist’s journey with JAX: Finding efficiency in optimal control and simulation
- 著者: Srikanth Kilaru (Google), Max Muchen Sun (Northwestern University)
- 発行元: Google Developers Blog
- 発行日: 2025年7月29日
- URL: https://developers.googleblog.com/ja/a-roboticists-journey-with-jax/
要点
- JAXは、ロボティクス研究における最適制御やシミュレーションで課題となる計算コストを大幅に削減する能力を持つライブラリである。
- JAXが持つvmap(自動ベクトル化)やscan(ループ処理の最適化)といった関数変換機能は、複雑な計算の並列処理を容易にし、実行速度を劇的に向上させる。
- JAXの持つ自動微分機能と構成可能性は、物理法則に基づく伝統的な「モデルベース制御」と、データから学習する「学習ベース手法」という異なるアプローチを一つのプログラム内でシームレスに統合することを可能にする。
- JAXを中心としたロボティクス開発のエコシステムは成長しており、LQRax(本稿で紹介する研究者が開発した制御用ツール)やMJX(物理シミュレータ)のような専門的なライブラリが次々と登場している。
詳細解説
前提知識:ロボットを動かす技術の課題
ロボットの研究開発を理解するために、まず「制御」と「シミュレーション」、そしてそのアプローチについて簡単に知っておく必要があります。
- 制御とシミュレーション
「制御」とは、ロボットが倒れないようにバランスを取ったり、目的地までアームを正確に動かしたりと、ロボットを意図通りに動かすための技術です。一方、「シミュレーション」は、その動きをコンピュータ上で仮想的に再現することです。シミュレーションにより、実物のロボットを壊す危険なく、安全かつ高速にアルゴリズムをテストできます。これらの処理、特にリアルタイムでの応答が求められる制御では、計算速度が極めて重要になります。 - 2つのアプローチ:「モデルベース」と「学習ベース」
- モデルベース:物理法則や数式(モデル)に基づいてロボットの動きを記述し、制御する方法です。予測可能性が高く、安全性を担保しやすいという長所がありますが、正確なモデルを作るのが難しいという課題があります。
- 学習ベース:大量のデータからニューラルネットワークなどに動きのパターンを学習させ、制御する方法です。複雑でモデル化が困難な状況にも対応できる可能性がありますが、膨大なデータが必要であったり、動きの予測が難しい場合があります。
近年のトレンドは、両者の長所を組み合わせ、より賢く、効率的なロボットを実現することです。しかし、異なる思想で設計された技術を統合するのは容易ではありませんでした。
2. JAXとは何か? なぜロボティクスで注目されるのか?
JAXは、Pythonで科学技術計算を行う際の定番ライブラリであるNumPyによく似た文法を持つ、高性能な数値計算ライブラリです。しかし、NumPyにはない決定的な強みを2つ持っています。それが「関数変換」と「自動微分」です。
- 強み①:vmapとscanによる計算の高速化
ロボットの制御やシミュレーションでは、同じような計算を大量に、あるいは連続して行う場面が頻繁に発生します。- vmap:この関数は、本来1つのデータに対して行う処理を、大量のデータに対して一度に(並列で)実行できるように自動で変換してくれます。これにより、特にGPU(画像処理装置)の並列計算能力を最大限に引き出し、計算を劇的に高速化できます。
- scan:ロボットの連続的な動きのように、「前の計算結果を次の計算に使う」といったループ処理を効率化します。参考記事の研究者は、このscanを使うことで、軌道シミュレーションを従来のNumPy実装に比べて最大2桁(100倍)も高速化できたと述べています。
- 強み②:gradによる自動微分と手法の統合
- grad:関数の微分(傾き)を自動で計算する機能です。学習ベースの手法では、この「微分」を使ってモデルのパラメータを少しずつ調整し、性能を高めていきます。JAXはこの処理を簡単かつ高速に行えます。
- 手法の統合:JAXの真価は、これらの機能がすべて同じフレームワーク上で提供される点にあります。これにより、例えばモデルベースの制御アルゴリズム(scanで高速化)と、学習ベースの表現(gradで最適化)を、まるでレゴブロックを組み合わせるように直感的に統合できます。これは、従来であればC++で書かれた制御コードとPythonで書かれた学習コードを連携させるような、手間のかかる作業でした。
研究事例:JAXでいかに課題を解決したか
ノースウェスタン大学のMax Muchen Sun氏は、まさにJAXのこれらの強みを活用して研究を前進させました。
- 課題: 彼は当初、複数の場所を効率的に巡回する「エルゴード制御」という手法を研究していましたが、その計算量の多さがリアルタイム制御の壁となっていました。
- 解決策: 彼はJAXのvmapとscanを活用することで、この計算ボトルネックを解消しました。
- 発展: さらに彼は、JAXの柔軟性を活かし、2つの先進的な研究を実現しました。
- 生成的モデルと最適制御の融合:物体の流れを学習する「フローマッチング」という学習ベースの手法と、古典的で信頼性の高い「LQR」というモデルベースの最適制御手法をJAX上で統合し、ロボットの探査能力を向上させました。
- ゲーム理論と生成的モデルの融合:複数のロボットが協調して動くための「ゲーム理論的制御」を、軌道を生成する学習モデル(CVAE)の一部として組み込みました。JAXの自動微分機能gradにより、この複雑な構造全体の最適化がスムーズに行えたと述べています。
JAXエコシステムの広がり:LQRaxの誕生
これらの研究を通して、Sun氏は自身が作成したLQR(最適制御の一種)関連のJAXコードが、様々なプロジェクトで再利用できることに気づきました。そこで彼は、これをLQRaxという独立したライブラリとしてパッケージ化し、公開しました。
LQRaxは、LQRという非常に有用な制御手法を、JAXの高速化機能(vmap, scan)や自動微分機能(grad)の恩恵を受けながら手軽に利用できるようにするものです。
このように、研究者が開発したツールがコミュニティに共有され、さらに新しい研究を促進するという好循環が生まれつつあります。GoogleもBraxやMJX(MuJoCo XLA)といった高性能な物理シミュレーションエンジンをJAXベースで提供しており、JAXを中心としたロボティクス開発のエコシステムは、今まさに急速に成長しています。
まとめ
本稿では、Google Developers Blogの記事を元に、数値計算ライブラリJAXがロボティクス分野、特に最適制御とシミュレーションの研究をいかに変革しているかを見てきました。
JAXがもたらす価値は、以下の2点に集約されます。
- 圧倒的な計算効率:vmapやscanといった機能により、複雑な計算をGPUなどで並列処理し、リアルタイム制御や大規模シミュレーションを可能にする。
- 開発の柔軟性:自動微分機能と構成可能性により、信頼性の高い「モデルベース」の手法と、適応性の高い「学習ベース」の手法を直感的に組み合わせ、これまでにない高度なロボットシステムを構築できる。
一人の研究者の軌跡は、JAXが単なるAI開発ツールに留まらず、科学技術計算の幅広い分野でフロンティアを切り拓く力を持っていることを示しています。今後、ロボットがさらに私たちの身近な存在になるにつれて、その頭脳を支えるJAXのようなソフトウェア技術の重要性は、ますます高まっていくことでしょう。