はじめに
本稿では、BBCが報じた「Federal judge says voice-over artists’ AI lawsuit can move forward」という記事を基に、AI音声合成技術を開発するスタートアップ企業を声優が訴えた裁判の動向とその意義について解説していきます。
引用元記事
- タイトル: Federal judge says voice-over artists’ AI lawsuit can move forward
- 発行元: BBC
- 発行日: 2025年7月12日
- URL: https://www.bbc.com/news/articles/cedgzj8z1wjo
要点
- 米国の声優カップルが、AIスタートアップ企業「Lovo」に対し、自らの声を無断でAI音声クローンとして複製・販売されたとして訴訟を起こした件である。
- ニューヨークの連邦地方裁判所は、「声そのもの」に対する著作権の主張は退けたものの、契約違反、欺瞞的(ぎまんてき)な商慣行、そしてAIの学習データとして音声録音物を不適切に使用した著作権侵害の訴えについては続行を認める判断を下した。
- この判決は、声自体に著作権が認められなくても、契約やデータ利用のプロセスにおける不正義は法的に追及できることを示しており、AI開発における倫理とクリエイターの権利保護の議論において、重要な前例となる可能性がある。
詳細解説
事件の経緯:巧妙に「声」が盗まれるまで
本件は、ニューヨーク在住の声優であるポール・スカイ・レーマン氏とリネア・セージ氏のカップルが、フリーランスの仕事が発端となり、自らの声がAIによってクローン化されている事実を知ったことから始まります。
彼らはそれぞれ、オンラインのフリーランスマーケット「Fiverr」を通じて、匿名のクライアントから音声収録の依頼を受けました。その際、クライアントはレーマン氏には「学術研究目的のみ」、セージ氏には「ラジオ広告のテスト用」と説明し、収録した音声は「外部に公開されることはなく、内部でのみ使用される」と約束していました。
しかし数ヶ月後、彼らは衝撃的な事実を耳にします。ハリウッドのストライキとAIが業界に与える影響についてのポッドキャストを聴いていたところ、AIチャットボットがインタビューに答える声が、まさしくレーマン氏自身の声だったのです。
帰宅して調査したところ、AI音声スタートアップ企業Lovo社が提供するテキスト読み上げプラットフォーム「Genny」上で、自分たちの声と酷似したAI音声が「カイル・スノー」「サリー・コールマン」といった名前で有料販売されていることを発見しました。さらに、レーマン氏のAI音声はLovo社のYouTube広告に、セージ氏のAI音声は同社の資金調達を目的としたプロモーションビデオに、それぞれ無断で使用されていました。
当初の契約内容とは全く異なる形で自分たちの声が商業利用されていたことを知り、二人はLovo社に対して集団代表訴訟を提起するに至りました。
裁判のポイント:なぜ「声の著作権」は認められず、それでも訴訟は続くのか
この裁判で最も注目すべき点は、裁判所が何を認め、何を退けたかです。
まず、裁判所はレーマン氏とセージ氏が主張した「声そのものに対する連邦著作権」は認めませんでした。これは、現在の著作権法では、声のトーンや話し方といった特徴は、具体的な「表現」というよりはアイデアやスタイルに近いものと見なされ、著作権保護の対象になりにくいという解釈に基づいています。
しかし、裁判所は訴えの全てを退けたわけではありません。以下の3つの重要な点について、アーティスト側の主張を認め、裁判の続行を許可しました。
- 契約違反: 当初「内部利用のみ」と約束していたにもかかわらず、Lovo社がその音声データを商業的に利用したのは明確な契約違反であるという主張です。
- 欺瞞的な商慣行: Lovo社が真の利用目的を偽って声優と契約し、音声データを不正に取得した行為が問題視されました。
- 著作権侵害(学習データとしての利用): これが最も重要なポイントです。声そのものではなく、声優がパフォーマンスとして収録した「音声録音物(オーディオデータ)」は著作物として保護されます。Lovo社がこの音声録音物を、AIモデルを訓練するための学習データとして無断で使用した行為が、著作権侵害にあたる可能性があると判断されたのです。
この判決が持つ大きな意義
今回の判決は、AIとクリエイティブ業界の関係において、非常に大きな意味を持ちます。たとえ「声」という抽象的なものに著作権が認められなくても、クリエイターを騙して得たデータを使い、その成果物(音声録音物)を無断でAIの学習に利用する行為は、法的に許されないという司法の姿勢が示されたからです。
これは、イラストや文章が作者に無断で画像生成AIや大規模言語モデルの学習に利用されている問題と根は同じです。クリエイターが時間と労力をかけて生み出した成果物が、同意なくAI開発の「餌」にされてしまうことへの警鐘と言えるでしょう。
Lovo社側は、アーティストの訴えを「手当たり次第の主張」と一蹴し、訴訟の全面的な棄却を求めていましたが、裁判所はそれを認めませんでした。アーティスト側の弁護士は、この決定を「見事な勝利」と呼び、今後の裁判で「巨大テック企業に責任を問う」と意気込みを語っています。
まとめ
本稿で解説したAI音声クローンを巡る訴訟は、AI技術が急速に社会に浸透する中で、私たちがいかにしてクリエイターの権利と尊厳を守っていくべきかという、根本的な問いを投げかけています。
今回のニューヨーク連邦地裁の判断は、AI開発企業に対して、より透明性が高く、倫理的なデータの取り扱いを求める強いメッセージとなりました。同時に、声優やイラストレーター、ミュージシャンといったクリエイター自身も、AI時代において自らの権利を守るため、契約内容を慎重に確認し、デジタル化された自らの成果物がどのように扱われる可能性があるのかを深く理解する必要があることを示唆しています。
この裁判はまだ始まったばかりです。今後の展開は、AIとクリエイティブ業界の未来のルールを形作る上で、間違いなく重要な試金石となるでしょう。