はじめに
本稿では、ロイター通信が報じた「Trump’s AI czar downplays risk AI chip exports could be smuggled」という記事を元に、トランプ政権下で米国のAI(人工知能)戦略がどのように変化しようとしているのかについて解説します。
引用元記事
- タイトル: Trump’s AI czar downplays risk AI chip exports could be smuggled
- 著者: Alexandra Alper
- 発行元: Reuters (ロイター)
- 発行日: 2025年6月10日
- URL: https://www.reuters.com/world/china/china-is-only-3-6-months-behind-us-ai-trump-official-says-2025-06-10/
要点
- トランプ政権のAI担当責任者デイビット・サックス氏は、AIチップは物理的に大きく追跡が容易なため、密輸のリスクは低いと主張している。
- 米国内の過度なAI規制はイノベーションを阻害し、顧客を競合国である中国に流出させるリスクがあると警告している。
- トランプ政権は、バイデン前政権が導入したAIチップの輸出制限、通称「AI拡散ルール」を撤廃し、米国技術の広範な「拡散」を推進する方針へ転換した。
- 中国のAI開発は米国に3~6ヶ月差まで僅差に迫っているとの認識を示し、米国の技術革新を妨げる障害を取り除くことが急務であると強調している。
詳細解説
トランプ政権、AI戦略を「規制」から「普及促進」へ大転換
今回報じられたデイビット・サックス氏の発言は、米国のAI戦略が大きな転換点を迎えていることを示唆しています。バイデン前政権は、AI技術が中国の軍事力強化に利用されることを警戒し、高性能なAIチップの輸出を厳しく制限する「リスク管理」を重視していました。
しかし、トランプ政権のAI担当責任者であるサックス氏は、この方針に懸念を示します。同氏は「恐れが機会を上回り、我々が目にしているこの素晴らしい進歩を台無しにしてしまうのではないかと心配しています」と述べ、過度な規制が米国のAI産業の成長を妨げる可能性を指摘しました。
この考えに基づき、トランプ政権はバイデン前政権が導入した「AI拡散ルール」を撤廃しました。このルールは、特定の国々が米国のAIチップを輸入して獲得できる計算能力の総量を制限するものでした。サックス氏は「我々の技術の拡散(diffusion)は、悪い言葉ではなく、良い言葉であるべきだ」と述べ、積極的に米国のAI技術を世界に広めていく方針を明確に打ち出したのです。これは、安全保障上のリスク管理よりも、市場でのリーダーシップ確保と経済成長を優先するという、明確な戦略転換と言えるでしょう。
AIチップは本当に「密輸」できないのか?
サックス氏は「我々はこれらのチップがブリーフケースに入れて密輸されるかのように話しますが、実際はそうではありません。これらは高さ8フィート(約2.4メートル)、重さ2トンのサーバーラックです」と述べ、密輸のリスクを軽視しています。この発言を理解するには、AIチップがどのように利用されているかを知る必要があります。
現在主流となっているNVIDIA社の製品に代表されるような高性能AIチップは、単体で動作するわけではありません。AIの開発と運用には、膨大な計算能力が必要です。そのため、何千、何万というAIチップが「サーバーラック」と呼ばれる巨大な棚に高密度で搭載され、「データセンター」という専用の巨大施設で一体となって稼働します。
つまり、サックス氏が言いたいのは、数個のチップを盗んでも意味がなく、データセンター規模の設備ごと不正に持ち出すことは不可能であり、どこでどのように使われているかは物理的に追跡が容易だ、ということです。この点を根拠に、同氏は密輸のリスクよりも、輸出を制限してビジネスチャンスを逃すリスクの方が大きいと考えているのです。
僅差に迫る中国とのAI開発競争
サックス氏が規制緩和を急ぐ背景には、中国との熾烈な技術覇権争いがあります。同氏は「中国はAIにおいて我々から何年も遅れているわけではありません。おそらく3ヶ月から6ヶ月差でしょう。非常に僅差のレースです」と強い危機感を示しました。
ロイターによると、ホワイトハウスは後に「これはAIモデルに関する発言であり、AIチップのハードウェア技術に関しては中国は1~2年遅れている」と補足しています。しかし、ソフトウェアであるAIモデルの進化がここまで速いということは、非常に重要です。事実、記事でも触れられている中国のAIアプリ「DeepSeek」は、その高い性能で世界に衝撃を与えました。
サックス氏は、もし米国の規制が厳しすぎれば、中東などの国々は「中国の腕の中に押しやられる」ことになると警告します。そして、「5年後に制裁対象であるファーウェイ製のAIチップが世界中に普及していたら、それは我々の負けを意味します」と述べ、米国製AI技術の世界展開こそが中国に対抗する最善策だと主張しているのです。
まとめ
本稿では、ロイター通信の記事を基に、トランプ政権下で進む米国のAI戦略の大きな方針転換について解説しました。バイデン前政権の「リスク管理・規制重視」から、トランプ政権は「市場拡大・普及促進」へと舵を切り、その背景には中国との熾烈な技術覇権争いと、AIチップの物理的な特性への新たな評価があります。
この戦略転換は、米国の同盟国やパートナー国にとっては、最先端のAI技術へアクセスしやすくなるという好機をもたらすかもしれません。一方で、技術が意図しない形で拡散するリスクも考慮する必要があります。この米国の新しいAI戦略が、世界の技術勢力図にどのような影響を与え、ひいては日本の安全保障や産業競争力にどう関わってくるのか、今後も注意深く見守っていく必要があるでしょう。