はじめに
近年、AI(人工知能)技術は目覚ましい発展を遂げ、私たちの社会や経済に大きな影響を与え始めています。特に、高性能なAIモデルの開発には膨大な計算能力(コンピュート・パワー)が必要不可欠であり、その基盤となる先端半導体が戦略的に重要な意味を持つようになっています。
このような状況下で、米国商務省はAI技術の拡散に関するルール(Diffusion Rule)を定め、先端半導体の輸出規制を強化する動きを見せています。本稿では、有力なAI開発企業であるAnthropic社がこのルールに対して提出した意見書(ポジションペーパー)を取り上げ、その内容を分かりやすく解説します。
引用元記事
- タイトル: Securing America’s Compute Advantage: Anthropic’s Position on the Diffusion Rule
- 発行元: Anthropic
- 発行日: 2025年4月30日
- URL: https://www.anthropic.com/news/securing-america-s-compute-advantage-anthropic-s-position-on-the-diffusion-rule
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要点
Anthropic社は、米国の国家安全保障と経済的繁栄のため、先端半導体に対する輸出規制を維持・強化することが不可欠であると主張しています。主な論点は以下の通りです。
- 計算能力の優位性が重要: 高度なAI開発には膨大な計算能力が必要であり、米国の半導体技術におけるリードを維持することが鍵となる。
- 輸出規制は有効: 中国のAI企業DeepSeekの事例は、チップ規制が実際に効果を上げていることを示している。
- 米国のインフラ主導権を確立: 規制が弱いと、AIインフラ開発が海外に流出し、米国の戦略的優位性が損なわれる危険性がある。
- チップ密輸は大きな脅威: 中国による組織的な先端チップ密輸が横行しており、規制の実効性を脅かしている。
- 規制強化の提案: Anthropic社は、現行ルールのTier(階層)システムの調整、ライセンス不要の計算能力閾値の引き下げ、執行体制の強化を提案している。
- 遅延のリスク: ルールの施行(2025年5月15日)が遅れると、中国企業によるさらなる買い溜めを招き、規制の効果が薄れる。
詳細解説
背景:AI拡散ルール(Diffusion Rule)とは
まず、本稿で議論の中心となる「AI拡散ルール(Diffusion Rule)」について簡単に説明します。これは、2025年1月に米国商務省が発表した暫定最終規則で、先端AIチップやAIモデルの重み(AIモデルを構成するパラメータ)に対する輸出規制を世界的に定めるものです。
このルールでは、国家安全保障上のリスクに基づき、各国を3つのTier(階層)に分類しています。
- Tier 1: 緊密な同盟国(制限はほとんどない)※日本は現状ここに所属している。
- Tier 2: その他の多くの国(一定の制限あり)
- Tier 3: 敵対国(厳しい規制あり)
Anthropic社の意見書は、このルールを評価しつつ、さらに強化すべき点があると指摘するものです。トランプ前政権時代に、AIが中国との戦略的競争の中心であり、米国はそのリーダーシップを維持・強化するために輸出規制を活用すべきであるという認識が始まりました。Anthropic社もこの方向性を支持しています。
計算能力(コンピュート)の優位性がなぜ重要か
Anthropic社が最も強調するのが、計算能力(コンピュート)における米国の優位性を維持することの重要性です。現代の最先端AIモデル、特に大規模言語モデル(LLM)などを訓練するには、膨大な量の計算処理能力が必要となります。
現在、米国はこの先端半導体技術において世界をリードしています。輸出規制は、米国のチップ技術が進歩し続ける一方で、規制対象国(特に中国)の進歩を遅らせることを狙っています。計算能力は2年ごとに倍増する傾向(ムーアの法則に類似したトレンド)にあるため、この差は時間とともに拡大します。Anthropic社は、2027年までには、古いチップを使用する国は、最先端の米国技術を持つ国に比べてAI訓練コストが10倍になる可能性があると試算しており、この「効率性のギャップ」が米国の優位性を確固たるものにすると考えています。
DeepSeekの事例:輸出規制は機能している
Anthropic社は、中国のAI企業DeepSeekの事例を挙げ、輸出規制が実際に効果を発揮している証拠としています。DeepSeek自身も、チップ規制が彼らの主要な制約であると公に認めており、米国の企業と同様の成果を出すために2~4倍の電力を使用する必要があると述べています。
DeepSeekはおそらく、輸出規制が施行される前に入手した最先端チップを使用してシステムを訓練したと考えられます。今後の規制により、彼らはより効率の劣る中国製チップへの移行を余儀なくされるでしょう。これは、輸出規制が中国のAI開発ペースを鈍化させる上で有効であることを示唆しています。
米国のAIインフラ主導権の確立
もし強力な規制がなければ、最先端AIの訓練に必要なAIインフラ開発が海外(特に規制の緩い国)に流出するリスクがあります。これは、かつて太陽光パネルやバッテリー産業で起こったことと同様の事態であり、米国の戦略的優位性を脅かす可能性があります。
事実、世界の半導体生産における米国のシェアは、1990年の40%から現在ではわずか12%にまで低下し、世界の最先端半導体の90%は米国外で製造されています。この生産拠点の海外移転(オフショアリング)は戦略的な脆弱性であり、AIインフラで同じ過ちを繰り返してはならない、とAnthropic社は警鐘を鳴らしています。
Diffusion Frameworkは、米国内での計算能力利用要件や海外での計算能力上限を設けることで、このリスクに対処しようとしています。これにより、来るべきAIインフラの構築が米国内で米国企業によって行われることを確実にしようとしています。現在の供給制約と世界的な輸出体制を組み合わせることで、他国にとっても「大規模な最先端計算能力にアクセスするには、米国のAIインフラに投資し、米国の輸出規制に従う必要がある」という明確なインセンティブが生まれると指摘しています。
チップ密輸という深刻な脅威
輸出規制の実効性を揺るがす大きな問題として、チップ密輸の存在が挙げられます。中国は巧妙な密輸ネットワークを構築しており、数億ドル相当のチップが関与した事例が報告されています。密輸業者は、妊婦のお腹を模した義肢にプロセッサを隠したり、活きたロブスターと一緒にGPUを梱包したりするなど、創造的な(そして悪質な)手口を用いています。さらに、中国企業は輸出規制を回避するために、第三国にペーパーカンパニーを急速に設立し続けています。
Anthropic社による具体的な強化提案
これらの現状認識に基づき、Anthropic社はDiffusion Ruleをさらに強化するために、以下の3つの主要な点を提案しています。
- Tierシステムの調整: Tier 2に属する国々の中でも、データセンターのセキュリティ対策が強固な国に対しては、密輸を防止し技術管理を連携させる政府間合意を通じて、より多くのチップを入手できるようにすることを提案しています。これにより、信頼できるパートナーとの協力を深める狙いがあります。
- Tier 2諸国に対するライセンス不要の計算能力閾値の引き下げ: 現在、Tier 2の国は、政府の許可なしにNVIDIA H100(高度なAIチップの代表例)約1,700個分(約4,000万ドル相当)を購入できます。これは、密輸業者が監視を避けるために、この上限ぎりぎりの購入を複数回繰り返すという抜け穴を生む可能性があります。Anthropic社は、この閾値を引き下げ、より多くの取引が審査対象となるようにすることで、密輸業者がこの抜け穴を利用しにくくすることを推奨しています。
- 輸出執行のための資金増強: 輸出規制は、適切な執行体制があって初めて効果を発揮します。商務省産業安全保障局(BIS)へのリソースを強化することが、規制の実効性を大幅に向上させるとしています。
遅延のリスクと行動の必要性
Anthropic社は、ルールの施行(2025年5月15日予定)をこれ以上遅らせることのリスクも強調しています。中国企業は施行日を前に、攻撃的な買い溜めを行っています。いかなる施行の一時停止も、さらなる買い溜めを招き、この重要な時期におけるルールの有効性を弱めることになります。
米国の輸出規制を強化するための戦略的な好機は「今」であると、Anthropic社は訴えます。Diffusion Frameworkを強化することで、米国はその価値観と国益に沿った形で、変革をもたらすAI技術が国内で開発されることを確実にできるとしています。今日の断固たる行動を通じて計算能力の優位性を維持することが、米国のAIにおける継続的なリーダーシップにかかっているとしています。
まとめ
本稿では、Anthropic社が米国商務省の「AI拡散ルール」に対して提出した意見書の内容を解説しました。Anthropic社は、米国の計算能力における優位性を維持・強化することが、国家安全保障と経済的繁栄に不可欠であると一貫して主張しています。
DeepSeekの事例は輸出規制の有効性を示唆する一方、巧妙化するチップ密輸は大きな脅威となっています。これに対し、Anthropic社はTierシステムの調整、ライセンス不要閾値の引き下げ、執行体制の強化といった具体的な改善策を提案しました。
AI技術が急速に進化し、国際的な競争が激化する中で、先端技術の管理と輸出規制のあり方は、今後の世界のパワーバランスにも影響を与えうる重要なテーマです。Anthropic社の提言は、AI開発の最前線にいる企業が、技術的な現実と戦略的な必要性をどのように捉えているかを示す貴重な視点を提供しています。私たちも、この分野の動向を引き続き注視していく必要があるでしょう。
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