はじめに
現代社会において、行政サービスに求められる水準は日々高まっています。私たちは、民間企業のサービスと同じような利便性や迅速性を、市役所や政府機関の手続きにも期待するようになりました。しかし、公共部門は大規模な災害やサイバー攻撃への対応といった、民間企業とは異なる特有の課題も抱えています。
本稿では、こうした期待と課題に応えるための鍵として「ハイブリッドクラウド」と「AI」の活用に焦点を当てます。公共部門がテクノロジーをいかにして導入し、より良い市民サービスを実現していくべきか、その技術的なポイントや背景を分かりやすく解説していきます。
参考記事
- タイトル: How the public sector can scale their impact with hybrid cloud and AI
- 著者: Prakash Pattni
- 発行元: IBM
- 発行日: 2025年8月11日
- URL: https://www.ibm.com/think/insights/how-public-sector-can-scale-impact
要点
- 公共部門は、市民からの高いサービス水準への期待と、大規模な脅威への対応という二重の課題に直面している。
- ハイブリッドクラウドは、コスト削減、セキュリティ強化、市民体験の向上を実現しつつ、データ主権や規制遵守といった公共部門特有の要件を満たすための有効な基盤である。
- AIの能力を安全に最大限活用するには、セキュリティとコンプライアンスが組み込まれたクラウドプラットフォームが不可欠である。
- 「Confidential Computing」や「Keep Your Own Key」といった技術は、機密性の高い市民のデータを保護しながらイノベーションを進める上で重要な役割を果たす。
詳細解説
公共部門が直面する「近代化」の壁
多くの政府・自治体は、デジタル技術を活用してサービスを向上させる「デジタルトランスフォーメーション(DX)」を進めています。IBMの調査によれば、約80%の政府機関が既にクラウドコンピューティングを導入し、コスト削減やセキュリティ強化といった恩恵を受けています。
公共部門の使命は「公共の利益のために奉仕し、市民と重要システムを保護すること」にあります。そのため、新しい技術を導入する際には、民間企業以上に慎重さが求められます。特に、自然災害や国際的なサイバー攻撃といった予期せぬ事態に、社会全体を支えるシステムとして迅速かつ大規模に対応しなければならないという、特有の難しさがあります。
一方で、市民が求めるのは、オンラインショッピングのように簡単で便利な行政サービスです。この「堅牢性を維持しつつ、利便性を追求する」という難しいバランスを取ることが、公共部門におけるイノベーションの大きな壁となっているのです。
なぜ「ハイブリッドクラウド」が解決策になるのか
この課題を解決する鍵として注目されているのがハイブリッドクラウドです。
まず前提として、クラウドには大きく分けて、インターネット経由で誰でも利用できる「パブリッククラウド」と、特定の組織専用の「プライベートクラウド」があります。そして、組織が自前でサーバーなどを管理・運用する従来型の形態を「オンプレミス」と呼びます。
ハイブリッドクラウドとは、これらパブリッククラウド、プライベートクラウド、オンプレミスを複数組み合わせて、あたかも一つのシステムのように連携させて利用する形態を指します。これにより、それぞれの長所を活かした「いいとこ取り」が可能になります。
公共部門にとっての具体的なメリットは以下の通りです。
- データ主権とコンプライアンスの確保: 個人情報や機密情報など、法律や規制によって国内に保管することが義務付けられているデータは、オンプレミスや国内のプライベートクラウドに配置します。一方で、ウェブサイトのような公開情報は、コスト効率の良いパブリッククラウドに置く、といった柔軟な使い分けが可能です。これにより、データの置き場所を自ら管理する「データ主権」を維持しやすくなります。
- セキュリティと回復力(レジリエンス)の強化: 重要なシステムを複数の環境に分散させることで、一か所で障害が発生してもサービス全体が停止するリスクを低減できます。災害対策としても非常に有効です。
- コストの最適化と俊敏性: 常に高い性能が必要なシステムは手元に置きつつ、一時的に大量の計算能力が必要になる分析処理などは、使った分だけ料金を支払うパブリッククラウドを利用することで、ITコストを最適化できます。
AIを安全に活用するための技術的基盤
AIの活用は、行政サービスの自動化や効率化を大きく前進させる可能性を秘めています。しかし、AIが扱うデータには機密性の高い市民の情報が含まれるため、その保護は最優先事項です。
ここで重要になるのが、データを安全に保護しながらAIを活用するための技術です。プラットフォームのセキュリティ機能として、特に重要な二つの技術が挙げられます。
- Confidential Computing(機密コンピューティング):
通常、データは保管中(ストレージ上)や通信中(ネットワーク上)は暗号化で保護されますが、サーバーで処理される「使用中」は一時的に暗号化が解かれてしまいます。Confidential Computingは、データがCPUで処理されている最中も暗号化された状態を保つ技術です。これにより、システム管理者やクラウド事業者でさえも、処理中のデータにアクセスすることができなくなり、情報漏洩のリスクを大幅に低減します。 - Keep Your Own Key (KYOK):
クラウド上のデータを暗号化する「鍵」を、クラウド事業者ではなく利用者自身が管理する仕組みです。これにより、たとえ政府からの要請であっても、鍵を持つ利用者自身の許可なくデータが第三者に開示されることを防ぎ、データの管理権を完全に利用者の手に留めることができます。
これらの技術は、市民の信頼を損なうことなく、AIのような先進技術の恩恵を最大限に引き出すための土台となります。
まとめ
本稿では、IBM社の記事を基に、公共部門が直面する課題と、それを乗り越えるためのハイブリッドクラウドおよびAIの活用法について解説しました。
市民の期待に応える利便性の高いサービスを提供しつつ、災害やサイバー攻撃から社会を守るという二つの大きな使命を果たすために、テクノロジーの戦略的な活用は不可欠です。
特にハイブリッドクラウドは、セキュリティ、データ主権、コスト効率といった複数の要件をバランス良く満たすための現実的かつ強力な選択肢です。さらに、Confidential Computingのような先進的なセキュリティ技術を組み合わせることで、市民のデータを安全に保護しながら、AIを活用した次世代の行政サービスを実現することができます。
公共部門のDXは、単なる業務効率化に留まりません。それは、テクノロジーを通じて市民との信頼関係を再構築し、より安全で便利な社会を築くための重要な取り組みなのです。