はじめに
近年、注目を集める量子コンピュータ。その重要な応用先の一つが「量子シミュレーション」です。これは、従来のコンピュータでは計算が困難な、複雑な物理現象を量子コンピュータ上で再現する技術です。本稿では、Google Quantum AIチームが開発した、量子シミュレーションのための新しい「ハイブリッド手法」に関する研究成果を紹介します。この手法は、従来のデジタル方式とアナログ方式の利点を組み合わせることで、より高速かつ柔軟なシミュレーションを実現し、物理学における新たな発見をもたらしました。
引用元記事
- タイトル: A new hybrid platform for quantum simulation of magnetism
- 発行元: Google Quantum AI (Google Research Blog)
- 発行日: 2025年4月21日
- URL: https://research.google/blog/a-new-hybrid-platform-for-quantum-simulation-of-magnetism/
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要点
- Google Quantum AIは、アナログ量子シミュレーションとデジタル量子シミュレーションを組み合わせた新しいハイブリッド手法を開発しました。
- このハイブリッド手法は、デジタルの柔軟性とアナログの高速性という両者の利点を兼ね備えています。
- 新しい高精度なキャリブレーション(調整)技術により、超伝導量子ビットを用いたハイブリッド手法の実現が可能になりました。
- この手法を用いて量子磁性(物質が磁石の性質を示す現象の量子版)のシミュレーションを行い、コスタリッツ・サウレス転移と呼ばれる現象を観測しました。
- さらに、広く受け入れられていたキブル・ズレック機構という物理理論が、特定の条件下では成り立たないという予想外の発見をしました。
- このハイブリッド手法は、従来のコンピュータでは解明困難な物理現象の解明や、新材料開発などへの応用が期待されます。
詳細解説
なぜ量子シミュレーションが必要なのか?
私たちの身の回りにある物質の性質や化学反応は、ミクロな世界では「量子力学」という法則に従っています。しかし、量子の世界は非常に複雑で、たくさんの粒子が互いに影響しあう(相互作用する)系の振る舞いを、現在の最高性能のスーパーコンピュータ(古典コンピュータ)で正確にシミュレーションすることは、多くの場合、計算量が爆発的に増大するため不可能です。そこで期待されているのが量子コンピュータを用いた量子シミュレーションです。量子コンピュータは、量子の性質そのものを利用して計算を行うため、このような複雑な量子系のシミュレーションを得意とします。
アナログとデジタルの「いいとこ取り」:ハイブリッド手法
量子シミュレーションには、大きく分けて「デジタル方式」と「アナログ方式」の二つのアプローチがあります。
- デジタル量子シミュレーション: 量子系の時間変化を、小さなステップ(量子ゲート操作)に分解し、順番に実行していく方式です。一つ一つの操作を精密に制御できるため、様々な問題に対応できる柔軟性がありますが、多くのステップが必要になるためシミュレーションに時間がかかるという欠点があります。例えるなら、複雑なダンスの振り付けを、一つ一つのステップに分解して順番に練習するようなものです。
- アナログ量子シミュレーション: シミュレーションしたい物理現象とよく似た振る舞いをするように量子ビット(量子コンピュータの基本素子)間の相互作用を直接制御し、その自然な時間変化を観測する方式です。全ての相互作用を同時に行わせるため、高速に複雑な量子状態(特に量子もつれ)を生成できますが、特定の問題に特化しており、柔軟性に欠ける側面があります。これは、ダンサー全員が一斉に、互いに影響しあいながら連続的に踊る様子を再現するようなものです。
今回Googleが開発したのは、この二つの方式を組み合わせたハイブリッド手法です。具体的には、シミュレーションの初期状態の準備や最終状態の測定といった精密な制御が必要な部分にはデジタル方式を、系の時間発展(相互作用)のシミュレーションという速度が重要な部分にはアナログ方式を用いる、という「いいとこ取り」のアプローチです。これにより、柔軟性と高速性を両立することを目指しました。
課題:アナログ部分の高精度な調整(キャリブレーション)
このハイブリッド手法を実現する上での大きな課題は、アナログ部分の高精度なキャリブレーションでした。アナログ方式では、多数の量子ビット間の相互作用を同時に、かつ正確に制御する必要があります。しかし、量子ビット間の相互作用は互いに干渉しあうため、「AとBの相互作用」と「BとCの相互作用」を同時に行うと、それぞれの相互作用を個別に行った場合の結果の単純な足し合わせとは異なる結果になってしまいます。これは、大勢で同時にダンスをすると、個々の動きが互いに影響しあって全体のフォーメーションが変わってしまうことに似ています。

研究チームは、この課題を克服するために、特定の実験とハードウェアの精密なモデリングを組み合わせた新しいキャリブレーション手法を開発しました。これにより、デジタル方式に匹敵する精度でアナログな時間発展を制御することに成功しました。その精度は、ベンチマークテストにおいて、エラー率がわずか0.1%(1000回に1回の誤り)という高いレベルを達成しました。この精度と速度の組み合わせは、現在の最高性能のスーパーコンピュータでも再現が困難であり、実験で使用した「Frontier」(当時世界最速)で同等のシミュレーションを行うには100万年以上かかると見積もられています。

量子磁性のシミュレーションと新たな発見
研究チームは、このハイブリッド手法を用いて、量子磁性のシミュレーションを行いました。量子ビットを小さな磁石(スピン)とみなし、それらの相互作用をアナログ方式で高速にシミュレーションしました。特に、相互作用の強さをゆっくりと変化させた場合に、スピンが特定の方向に揃うコスタリッツ・サウレス転移と呼ばれる現象を高精度で観測することに成功しました。これは、水が氷になる相転移現象の量子版のようなものです。このような極低温状態(シミュレーション対象の磁石の温度であり、量子チップ自体の温度ではない)で現れる複雑な量子状態は、従来のデジタル方式では到達が困難でした。

さらに興味深いことに、相互作用を変化させる速さとスピンの整列具合の関係を調べたところ、キブル・ズレック機構として知られる有名な物理理論の予測と実験結果が一致しないことが判明しました。当初はキャリブレーションの問題も疑われましたが、検証の結果、これは測定誤差などではなく、物理的な新発見であることが確認されました。キブル・ズレック機構は、相互作用を変化させる過程でスピンの整列がある時点で止まり、小さな整列した領域が独立して多数存在する状態になると予測していました。しかし、今回の実験では、これらの小さな領域が互いに合体してより大きな領域へと成長していくことが示唆されました。これは、これまで広く受け入れられてきた理論の適用限界を示す重要な発見であり、量子シミュレーションにおける低温状態の生成メカニズムの理解を深めるものです。
さらなる応用:初期状態のカスタマイズ
研究チームはさらに、デジタル方式の部分で2量子ビットゲートを用いることで、シミュレーションの初期状態をより柔軟に設定できることを示しました。これにより、同じハイブリッドの枠組みの中で、
- 局所的に低温の領域を多数作り、それらが合体していく様子
- 高温の領域と低温の領域を隣接させ、熱が移動して平衡状態になる様子(熱いコーヒーに冷たいミルクを注ぐような状況)
- スピンの流れ(スピン流)がある状態を作り、その流れが時間とともに減衰していく様子
といった、全く異なる物理現象をシミュレーションできることを実証しました。これは、ハイブリッド手法の高い汎用性を示すものです。

まとめ
本稿では、Google Quantum AIが開発した、アナログとデジタルの利点を融合した新しいハイブリッド量子シミュレーション手法について解説しました。高精度なキャリブレーション技術によって実現されたこの手法は、高速性と柔軟性を両立し、量子磁性のシミュレーションにおいてコスタリッツ・サウレス転移の観測や、既存の物理理論(キブル・ズレック機構)の破れという重要な科学的発見をもたらしました。さらに、初期状態を柔軟に設定することで、多様な物理現象を探求できる可能性も示されています。
このハイブリッド手法は、従来のコンピュータでは解明が困難であった複雑な量子現象のシミュレーションを可能にし、物性物理学、材料科学、化学など、様々な分野でのブレークスルーにつながることが期待されます。今回の成果はSycamoreチップを用いたものですが、研究チームは既に新しいWillowチップでの応用も開始しており、今後のさらなる発展が注目されます。
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