[ニュース解説]米上院が圧倒的多数でAI規制モラトリアム条項を撤回:州の権利vs技術革新の攻防の結果

目次

はじめに

 2025年7月1日、米国上院において重要な採決が行われました。トランプ政権の税制改正・歳出削減法案に含まれていた、州のAI規制を10年間禁止する条項が、99対1という圧倒的多数で撤回されました。この決定は、ニューヨーク・タイムズが「技術業界への大きな打撃」と報じるように、AI業界が政策的勝利の寸前で重大な敗北を喫したことを意味します。本稿では、AP通信、CNN、ロイター、ニューヨーク・タイムズなどの各報道をもとに、この重要な決定の背景と意義について解説します。

引用元記事

AP通信

CNN

ロイター

ニューヨーク・タイムズ

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要点

  • 圧倒的多数での撤回決定:米上院は99対1という圧倒的多数で、州のAI規制を10年間禁止する条項をトランプ政権の税制改正法案から撤回した。
  • 当初の条項内容:提案では州が新たなAI法を制定したり、既存のAI関連法を施行することを10年間禁止し、AI規制を控える州にのみ連邦のブロードバンドやAIインフラ補助金を提供するとしていた。
  • 州の権利vs連邦統制:共和党・民主党を問わず多数の州知事が反対を表明し、州の権利を守る観点から条項撤回を求めていた。
  • 技術業界への重大な打撃:この決定を技術業界が政策的勝利の寸前で喫した「大きな打撃」と位置づけ、業界の期待が大きく裏切られたと予想される。
  • 積極的なロビー活動の失敗:シリコンバレーの大手ベンチャーキャピタルAndreessen Horowitz、OpenAI、防衛技術企業Andurilなどが激しいロビー活動を展開したが、最終的に失敗に終わった。
  • 政府内部での支持:ハワード・ルトニック商務長官が「AI競争に勝利するためには投資とイノベーションを優先すべき」として公的に支持を表明していた。
  • 州レベルでの広範な規制:ほぼすべての州が何らかのAI規制法を制定済みで、全50州が過去1年間にAI関連法案を提出している現状がある。
  • 妥協案も失敗:テッド・クルーズ議員は期間を5年に短縮し、児童保護やアーティスト保護の法律を例外とする妥協案を提示したが、最終的に撤回された。

詳細解説

AI規制モラトリアム条項の背景と内容

 この条項は、米国におけるAIガバナンスの根本的な問題を浮き彫りにしました。現在、米国では連邦レベルでの包括的なAI規制法が存在しない一方で、ほぼすべての州が何らかのAI規制法を制定済みという状況です。ニューヨーク・タイムズによると、全50州が過去1年間にAI関連法案を提出しており、この分野への関心の高さを示しています。

 条項の発案と経緯について、新たに明らかになった詳細があります。この提案は元々、マイク・ジョンソン下院議長(共和党・ルイジアナ州)が推進したもので、5月22日に下院で可決された法案には「人工知能・情報技術近代化イニシアチブ」として10年間のモラトリアムが含まれていました。その後、上院でテッド・クルーズ議員が引き継いで推進することになったのです。

 当初提案された条項の具体的内容について、各段階での変化がありました:

下院版(マイク・ジョンソン議長案)

  • 州および地方政府によるAI規制の新規制定を10年間完全禁止
  • 既存のAI関連法の施行停止

上院版(テッド・クルーズ議員案)

  • より限定的なアプローチで、新設される5億ドルのAIインフラ支援基金への州のアクセスのみを制限
  • AI規制を控える州にのみ補助金を提供する条件付きアプローチ
  • ブロードバンドインターネット関連の連邦補助金も同様の条件付きとする

 現在の州レベルでの規制状況は想像以上に広範囲に及んでいます。各州が制定している法律には以下のようなものがあります:

  • 消費者プライバシーの強化
  • AI生成による児童性的虐待画像の禁止
  • 政治候補者のディープフェイク動画の違法化
  • ロボコール対策
  • 自動運転車の安全規制
  • AI生成コンテンツの表示義務

技術業界の強力なロビー活動と政府支持

 今回の条項推進には、技術業界による組織的で強力なロビー活動が展開されていました。ニューヨーク・タイムズの報道によると、以下の主要企業・組織が条項成立に向けて積極的に活動していました:

主要なロビー活動主体

  • Andreessen Horowitz:シリコンバレーの大手ベンチャーキャピタル
  • OpenAI:ChatGPTで知られるAI開発企業
  • Anduril:防衛技術に特化したAI企業

 これらの企業は、スタートアップ企業にとって「数十の異なる州のAI法に対応することは困難すぎる」という論理で条項の必要性を主張していました。ロイターの報道によると、Alphabet(Google)やOpenAIを含む主要AI企業も、「多様な要件の寄せ集めからイノベーションを解放する」ために、AI規制を州の手から取り上げることを議会に支持すると表明していました。特に、急成長するAI分野での新興企業にとって、州ごとに異なる規制への対応コストが事業の大きな負担になるという懸念を強調していました。

 トランプ政権からの強力な支持も注目すべき点です。ハワード・ルトニック商務長官は、月曜日にソーシャルメディアで「AI競争に勝利することを真剣に考えるなら、投資とイノベーションを優先しなければならない」と投稿し、モラトリアムを「アメリカのAIリーダーシップを推進するための重要な政策」と位置づけていました。

 この政府レベルでの明確な支持表明は、条項が単なる業界の要望ではなく、国家戦略としてのAI競争力強化という文脈で検討されていたことを示しています。

州の反発と多様な意見

 しかし、この提案に対して共和党・民主党を問わず多数の州が強い反発を示しました。特に注目すべきは、トランプ前政権で報道官を務めたアーカンソー州のサラ・ハッカビー・サンダース知事が17人の共和党知事と連名で議会に反対書簡を送った点です。

 州側の主な懸念は以下の通りでした:

  • 児童保護の観点:多くの州がAI生成による有害コンテンツから子どもを守る法律を制定しており、モラトリアムによってこれらの保護措置が無効化される恐れがあった。
  • 創作者の権利保護:テネシー州のELVIS法(Ensuring Likeness Voice and Image Security Act)のように、AI技術によって無断で音声や肖像が複製されることからアーティストを守る法律が対象となる可能性があった。
  • ディープフェイク対策:政治的なディープフェイクや性的な悪用を防ぐための州法が施行できなくなる懸念があった。
  • 自治権の侵害:連邦政府が州の立法権を制限することへの根本的な反対があった。

技術業界の複雑な立場

 技術業界内でも意見が分かれました。統一規制を支持する立場では、Alphabet(Google)やOpenAIなどの大手AI企業が、州ごとに異なる規制への対応コストや複雑さを懸念していました。

 一方で、多くの技術者、学者、市民団体は反対を表明しました。彼らの主張は以下の通りです:

  • 連邦レベルでの包括的AI規制が存在しない現状で、州の規制まで禁止すれば規制の空白が生まれる
  • AI技術の急速な発展に対して、州レベルでの迅速な対応が重要
  • 技術企業への説明責任を求める努力が阻害される恐れ

政治的駆け引きと妥協の試み

 条項撤回に向けた政治的プロセスも注目に値します。マーシャ・ブラックバーン議員(共和党・テネシー州)が撤回修正案を提出し、民主党のマリア・カントウェル議員、エド・マーキー議員と超党派で協力しました。

 妥協案を巡る複雑な経緯も明らかになっています。日曜日の時点では、ブラックバーン議員とクルーズ議員が5年間のモラトリアムで合意に達し、条項が通過する可能性が高いと見られていました。しかし、法律専門家の多くがこの妥協案について、既存の州法を「無力化する」可能性のある文言が含まれていると指摘したことが状況を変えました。

 クルーズ議員は最後まで妥協案を模索し、以下の内容を提案しました:

  • モラトリアム期間を10年から5年に短縮
  • 児童保護法やテネシー州のELVIS法などを適用除外とする
  • クリエイターの権利保護措置を明確に除外

 しかし、ブラックバーン議員は月曜日夜遅くに、クルーズ議員との共同修正案を撤回し、代わりに元の条項全体を削除する動議を提出しました。撤回理由について、ブラックバーン議員は重要な発言を行っています:「連邦議会がKids Online Safety Act(子どもオンライン安全法)やオンラインプライバシー枠組みのような連邦先占立法を通過させるまで、州が市民を保護する法律を作ることを阻止することはできない」

 この発言は、連邦レベルでの包括的な保護法制が整備されていない現状では、州の規制権限を制限すべきではないという明確な立場を示したものです。トランプ大統領がこの妥協案を「素晴らしい合意」と評価したと報じられましたが、最終的には実現しませんでした。

「Vote-a-rama」という特殊な議事プロセス

 この採決は、午前4時過降の「Vote-a-rama」と呼ばれる特殊な議事プロセスの中で行われました。これは、予算調整法案(Budget Reconciliation)の審議において、議員が次々と修正案を提出し、連続して採決を行う手続きです。

 撤回に反対したのはトム・ティリス議員(共和党・ノースカロライナ州)ただ一人で、99対1という圧倒的多数での決定となりました。その後、上院は税制改正法案本体を51対50で可決しています。

国際的な文脈でのAIガバナンス

 この決定は、国際的なAIガバナンスの文脈でも重要な意味を持ちます。中国のAI開発との競争が激化する中で、米国内での規制統一は技術革新の速度に影響を与える可能性があります。

 クルーズ議員は撤回決定について、「中国、カリフォルニア州のニューサム知事、教員組合の指導者、トランスジェンダー団体、極左団体などがモラトリアムを嫌った」と述べ、様々な勢力の反対を指摘しました。

 しかし、州の権利を重視する保守派の立場からも、連邦政府による過度な統制への懸念が示されたことで、AIガバナンスにおける連邦制度の複雑さが浮き彫りになりました。

今後の展望と課題

 この決定により、当面は各州が独自のAI規制を継続することになります。しかし、根本的な課題は解決されていません:

  • 連邦レベルでの包括的AI法制の必要性:各州がバラバラに規制を進める現状では、技術企業にとって対応が困難であることは事実です。
  • イノベーションと安全性のバランス:AI技術の急速な発展と、社会への潜在的リスクのバランスをどう取るかという根本的な課題があります。
  • 国際競争力の維持:中国をはじめとする他国との技術競争において、米国の規制環境が与える影響を慎重に評価する必要があります。
  • 州と連邦の役割分担:AIガバナンスにおいて、どのレベルの政府がどのような責任を持つべきかという制度設計の問題があります。

まとめ

 米上院による99対1でのAI規制モラトリアム条項撤回は、米国のAIガバナンスにおける重要な転換点となりました。ニューヨーク・タイムズが「技術業界への大きな打撃」と表現したように、この決定は強力なロビー活動と政府支持を受けながらも、州の権利と消費者保護を重視する声が勝利したことを示しています。

 特に注目すべきは、Andreessen HorowitzやOpenAI、Andurilといった影響力のある企業による組織的なロビー活動、さらには商務長官による公的支持があったにもかかわらず、圧倒的多数で条項が撤回されたという事実です。これは、AI技術の統制を巡る議論において、経済的効率性や競争力の論理だけでは不十分であることを明確に示しました。

 この決定は、単なる政策論争を超えて、民主主義社会における技術統制のあり方、連邦制度下での政策決定プロセス、そしてイノベーションと社会保護のバランスという根本的な問題を提起しています。

 州の権利を重視する立場が勝利した形となりましたが、各州による規制の「パッチワーク」状態が続くことで、技術企業は引き続き複雑な対応を求められることになります。同時に、児童保護やディープフェイク対策、創作者の権利保護といった重要な分野での州レベルでの取り組みが継続できることになりました。

 今回の決定は、技術業界にとって政策的勝利の寸前での重大な敗北である一方、AI技術の発展と社会への影響について、中央集権的な統制よりも多層的なガバナンスを重視する方向性を示したものと言えるでしょう。消費者団体Common Sense Mediaのジム・スタイヤー最高経営責任者が述べたように、「上院は今日、子どもたち、家族、そして私たちの未来のために正しいことをした」のです。

 しかし、各州による規制の「パッチワーク」状態が続くことで、技術企業は引き続き複雑な対応を求められることになります。今後、連邦レベルでの包括的なAI法制の議論がどのように進展するか、そして各州の取り組みがどのような成果をもたらすかが注目されます。この決定は、AI時代における民主的ガバナンスの重要な試金石となるでしょう。

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