はじめに
Reutersが2025年11月13日に、Google DeepMindの創業者デミス・ハサビス氏に関する特集を発表しました。彼が、短期的な利益よりも高度な科学研究を優先する経営姿勢を貫いてきたことが明らかにされています。本稿では、Alphabet社のAI戦略におけるハサビス氏の役割と、その哲学がもたらした成果と課題について解説します。
参考記事
- タイトル: Google’s top AI executive seeks the profound over profits and the “prosaic”
- 著者: Jeffrey Dastin
- 発行元: Reuters
- 発行日: 2025年11月13日
- URL: https://www.reuters.com/investigations/googles-top-ai-executive-seeks-profound-over-profits-prosaic-2025-11-13/
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要点
- デミス・ハサビス氏は2014年のGoogle買収以降、DeepMindを商業化より科学研究に特化させる方針を維持し、2024年にはタンパク質構造予測研究でノーベル化学賞を受賞した
- 2019年頃にOpenAIから共同研究の提案を受けたが断り、BlackRockとの金融取引AI開発プロジェクトも優先順位を下げるなど、商業機会を見送る判断を重ねてきた
- DeepMindは過去5年間で78億ドル以上の売上を記録したが、すべてAlphabet内部からの支払いであり、外部顧客からの収益は確認されていない
- Hassabis氏は「人類が星々を旅し、宇宙人を探す究極の繁栄」を夢見ると語るなど、ビジネスより哲学的・宇宙論的な視点でAI開発を語る傾向がある
- 現在は「AlphaAssist」(Project Astra)と呼ばれる汎用アシスタントの開発を進めており、映画「アイアンマン」のJ.A.R.V.I.S.のような高度なAIアシスタントの実現を目指している
詳細解説
ハサビス氏の経歴と科学第一の姿勢
デミス・ハサビス氏は移民の両親のもとロンドンで生まれ、幼少期からチェスの才能を示しました。11歳のときリヒテンシュタインでの8時間に及ぶ試合に敗れた際、「この膨大な知的努力を、ゲーム以外の何かに向けられないだろうか」と考えたことが、後のAI研究への原動力になったとされています。
16歳でゲーム会社Bullfrog Productionsに就職し、1994年にヒット作「Theme Park」の開発に貢献しました。この作品は8000万ドルの売上を記録し、ハサビス氏は地元のゲーム業界幹部からポルシェを借りて乗り回すほどの成功を収めました。
ケンブリッジ大学でコンピュータサイエンスの学位を取得後、神経科学で博士号を取得。その後、共同研究者のシェーン・レッグ氏と出会い、後にDeepMindとなるスタートアップを共同創業しました。
創業初期の資金調達では、多くの投資家から「製品は何か?」と問われ続けました。Hassabis氏はこれを「あまりにも平凡な質問」と感じ、「これまでで最も重要なもの」と答えたと言います。この姿勢は、商業的成功よりも科学的野心を優先する彼の基本的な考え方を示しています。
Google買収と独立性の追求
2014年1月、GoogleはDeepMindを約6億5000万ドルで買収しました。Reutersによれば、ハサビス氏は当初、独立性を失うことを恐れていましたが、この資金があれば製品開発に追われることなく純粋な研究に集中できると判断し、買収に同意しました。
21%の株式を保有していたハサビス氏は、この取引で多額の報酬を得ました。2024年のドキュメンタリーで彼は「Googleに参加できただけでなく、ロンドンで独立して運営でき、製品に関わらず純粋な研究ができた」と評価しています。
しかし、買収後もハサビス氏は完全な独立を求め続けました。2015年にAlphabetが持株会社として再編された際、DeepMindをWaymo(自動運転部門)のような独立子会社にしようとしましたが、ルース・ポラット氏(現在のAlphabet社長兼最高投資責任者)らの反対に遭いました。AIはあまりにも戦略的であり、DeepMindの顧客はGoogle自身だけだという理由でした。
2017年にスコットランドで開催されたリトリートでは、ハサビス氏と他のDeepMindリーダーたちがスタッフに対し、Googleからの分離を計画していると伝えたとされています。この独立への執着は、営利企業の利益動機から切り離されたDeepMindだけが、責任あるAI開発を保証できるという信念に基づいていると考えられます。
見送られた商業機会
ハサビス氏が複数の商業機会を見送ってきたことが明らかにされています。
2019年頃、OpenAIの幹部がハサビス氏にシリコンバレーでの夕食会で提案を行いました。それは、OpenAIかDeepMindのどちらかがAGI(人工汎用知能)に近づいた場合、もう一方に通知し、両チームが協力すべきだという内容でした。安全性を確保するための提案でしたが、ハサビス氏はDeepMind単独で進めることを選びました。
また、2015年末から数年間、DeepMindは世界最大の資産運用会社BlackRockと金融取引へのAI応用について協議していました。2015年12月の会議で、ハサビス氏は「DeepMindはアポロ計画のようなもので、まず知能を『解決』し、次にそれ以外のすべてを解決する」という「高尚なビジョン」を語り、その後の市場の話は「汚らしい」ものに聞こえたと出席者は述べています。
「DeepTick」と名付けられたこのプロジェクトには20人以上の研究者とエンジニアが関わりましたが、ハサビス氏の関心は他にあり、プロジェクトは「静かに消えていった」とReutersは報じています。
金融分野でのAI応用は、近年多くのテクノロジー企業が注力する領域であり、短期的な収益機会としても魅力的な分野です。しかし、ハサビス氏はこうした「平凡な」応用よりも、より根本的な科学的課題の解決を優先したと考えられます。
AlphaGoとノーベル賞への道
一方で、ハサビス氏の科学重視の姿勢は、いくつかの画期的な成果を生み出しました。
2016年3月、DeepMindが開発したAlphaGoは、韓国の囲碁世界チャンピオン李世ドル氏との5番勝負で4勝1敗という結果を収めました。AlphaGoが行った一手は、観戦者が間違いと思うほど困惑させるものでしたが、後に天才的な手であることが証明されました。
囲碁はチェスよりも複雑なゲームとして知られており、この勝利はAI研究における重要なマイルストーンとなりました。ただし、ハサビス氏は優勝者への賞金100万ドルをGoogleの承認なしに約束し、後にGoogle財務部門を慌てさせる事態となりました。最終的に賞金は非営利団体に寄付されましたが、この出来事はハサビス氏の独立性の高さを示すエピソードとなっています。
2017年のスコットランドでのリトリート後、ハサビス氏はAIを医療などの分野にどう応用できるか検討を始めました。そして、「解決すればノーベル賞を獲得できるほど大きな問題」に取り組むようスタッフに指示したとされています。
この方針のもと、DeepMindは50年間にわたって科学者たちを悩ませてきたタンパク質構造予測の問題に取り組みました。アミノ酸がどのように折り畳まれて三次元のタンパク質構造になるのかを予測するプログラム「AlphaFold」を5年以内に開発し、数百万人の科学者に無料で公開しました。
この研究により、ハサビス氏とDeepMindの同僚は、2024年にノーベル化学賞を受賞しました。Sundar Pichai CEO(最高経営責任者)はX(旧Twitter)で「これは始まりに過ぎない」と称賛しました。
AlphaFoldの技術は、Isomorphic Labsという姉妹会社の設立につながりました。この会社もハサビス氏が率いており、AIを使った迅速な創薬を目指しています。製薬研究開発は時間がかかるため、まだ商業的成功には至っていませんが、2025年末までにAI設計の薬剤を臨床試験に進める計画だとハサビス氏は述べています。
ノーベル賞を目標に設定するという戦略は、一般的なビジネス手法とは大きく異なります。しかし、この成果は科学的野心が長期的には商業機会につながる可能性を示しているとも言えるでしょう。
OpenAIとの競争とGoogleの課題
2015年末、イーロン・マスク氏を含むグループがOpenAIを設立しました。DeepMindの元従業員数名がOpenAIに移籍し、一部の計画を再現した、と報じられています。OpenAIが当初非営利として設立されたため、これらの元従業員は、営利目的のAlphabetよりも安全な場所でAIを開発できると考えたとされています。
ハサビス氏は当初、競合の動きを気にしていませんでした。DeepMindの技術の方が優れていると考えていたようです。
しかし、2020年にOpenAIがChatGPTの基盤技術の初期版を公開すると、状況が変わりました。この技術は「Transformer」アーキテクチャを採用していましたが、これはGoogle Brainの従業員が開発し、Googleが2017年に論文で公開したものでした。Googleはこの技術を商業化せず、他の研究者が自由に利用できるようにしていました。
こうした研究成果の公開は、学術の進展や人材獲得のために業界では一般的な慣行です。しかし、この場合、Googleが早期にTransformerベースのチャットボットを発表しなかったことは機会損失だったと、Alphabet幹部の一部は後に認めています。
2022年にChatGPTが大きな注目を集めた後、Pichai CEOはGoogle BrainとDeepMindを統合し、ハサビス氏をすべてのAI業務の責任者に任命しました。この統合により、ハサビス氏が求めていた独立性の追求は事実上終わりを告げましたが、同時に彼はAlphabetのAI戦略全体を指揮する立場になりました。
現在、Googleは改良されたチャットボットとAIモデル「Gemini」を展開し、検索エンジンを強化しています。Geminiは一部の業界パフォーマンスランキングでトップの成績を収めています。2024年9月には、AIフォトエディター「Nano Banana」が4日間で1300万人の新規ユーザーをGeminiアプリに呼び込みました。これらの進展により、Alphabetの株価は今月、過去最高値を記録しました。
しかし、一部の投資家は、Googleの本来の強みを考えれば、なぜ明確なAIリーダーとして台頭していないのか疑問を呈しています。Deepwater Asset Managementのジーン・マンスター氏は「才能あるチームが全国選手権で優勝できないという典型的な例だ」と述べ、同社は今年約1400万ドル相当のAlphabet株を売却したと明かしています。
収益構造と投資規模
英国の規制当局への提出書類によれば、DeepMindは2024年までの5年間で累計78億ドル以上の売上を記録しました。しかし、Reutersによれば、これらの収入はすべて、他のGoogleプラットフォームで使用されるDeepMind技術に対するAlphabet内部からの支払いです。Alphabet帝国外の顧客からの収益は確認されていません。
また、同じ書類によれば、DeepMindはハサビス氏のAGI(人工汎用知能)追求のために、Googleの資本から96億ドル以上を運営費として使用してきました。AGIとは、コンピュータが本質的に人間と同等の知能を持つようになる高度なAI状態のことで、中国からシリコンバレーまで多くの研究機関が焦点を当てていますが、多くのコンピュータ科学者は実現まで数年かかると考えています。
この投資規模は、ハサビス氏の長期的なビジョンへのAlphabetのコミットメントを示していますが、同時に短期的な収益性への懸念も生じさせています。AlphaFoldは大きな科学的成果ですが、Alphabetの財務報告によれば、重要な収益源にはなっていません。
未来への展望:AlphaAssistとProject Astra
ハサビス氏は現在、「AlphaAssist」という「汎用アシスタント」の開発に注力しています。これは、人間の文脈を深く理解し、生産性と幸福度の両方を高める個別化された推奨を提供できるアシスタントを目指すものです。
この取り組みの一部は、Googleが公に「Project Astra」として言及していますが、「AlphaAssist」という名称や完全なコンセプトは今回初めて報じられました。
既存のバーチャルアシスタントは質問に答えることはできますが、より高度なタスクを実行する能力は限られています。DeepMindは、そのような制約に引っかからないアシスタントを構想しています。ハサビス氏はこのアイデアを、マーベル映画「アイアンマン」シリーズの未来的なアシスタント「J.A.R.V.I.S.」(Just A Rather Very Intelligent System)などのSF作品のキャラクターに例えているとされています。
この構想は、ハサビス氏が常に掲げてきた「根本問題(root node problems)」を解決するというアプローチの延長線上にあると考えられます。根本問題とは、病気のような複雑なシステムの基礎となる問題のことです。タンパク質構造の発見は、アミノ酸や生物学の理解を深め、がんなどの病気との闘いに役立つ可能性があります。
AlphaAssistが実現すれば、人々の日常生活や仕事の進め方を根本的に変える可能性がありますが、その商業化の道筋や時期については明確にされていません。
ハサビス氏の哲学と組織への影響
特徴的なのは、ハサビス氏が金銭の話を避け、宇宙論的・哲学的な観点からAIについて語る姿勢です。
2022年のポッドキャストインタビューでハサビス氏は「私がいつも夢見てきたこと」について、「人類が究極的に繁栄し、星々を旅し、もしそこにいるなら宇宙人を見つけること」と述べています。さらに、AIのさらなる進歩により「根本的な豊かさの世界、病気の治癒、そして私たちが抱える多くの大きな課題の解決」が可能になると語りました。
GoogleのシニアバイスプレジデントであるJames Manyika氏はReutersのインタビューで「彼は常に、何かを解決する方法について、最も野心的でクレイジーな見方をするだろう」と述べ、「典型的なデミスの反応は『なぜみんなが利用できるようにしないのか?なぜすべてを解決しないのか?』というものだ」と語っています。
DeepMindの最高執行責任者Lila Ibrahim氏も「デミスは長期的なことを気にかけています」としながら、「しかし彼は短期的にも成果を出しています」とReutersに述べています。
一方で、イーロン・マスク氏は2016年のOpenAI幹部へのメールで、DeepMindが「世界を支配する一つの心」を構築したがっていると懸念を表明し、「Deepmindは私に極度の精神的ストレスを与えている。彼らが勝てば、本当に悪いニュースになる」と書いていました。このメールは、マスク氏とOpenAIの間で現在進行中の訴訟で公開されたものです。
こうした評価の違いは、AI開発における責任と安全性について、業界のトップリーダーたちの間でも見解が分かれていることを示しています。ハサビス氏自身は、安全性を常に最優先事項としていると言われていますが、彼の独立性への執着は、自分こそがAIを安全に開発できる最適な科学者だという信念に基づいているとも考えられます。
まとめ
デミス・ハサビス氏は、短期的な商業的成功よりも長期的な科学的探求を優先する独特の経営哲学を貫いてきました。その結果、ノーベル賞という最高の学術的評価を獲得した一方で、OpenAIとの競争では後れを取る場面もありました。しかし、Geminiの成功やProject Astraへの取り組みは、科学第一主義が最終的にビジネス価値を生み出す可能性を示しています。AI業界の競争が激化する中、ハサビス氏のアプローチが長期的にどのような成果をもたらすのか、今後も注目されるでしょう。
