はじめに
本稿では、物理AI(Physical AI) という新たな技術フロンティアと、その分野をリードするスタートアップ P-1 AI の挑戦について、IBMのTHINK Blogに掲載された記事「The age of physical AI: Inside P-1’s attempt to build an engineering brain」をもとに解説します。
引用元記事
- タイトル: The age of physical AI: Inside P-1’s attempt to build an engineering brain
- 発行元: IBM (THINK Blog)
- 発行日: 2025年5月30日
- URL: https://www.ibm.com/think/news/physical-ai-age-p-1-engineering-brain
要点
- 物理AIは、文章や画像ではなく、摩擦、熱、振動、力といった現実世界の物理的制約に基づいて訓練されるAIである。
- P-1 AI社は、エンジニアと協調して複雑な設計タスクに取り組むデジタル見習いAI「Archie」を開発している。
- Archieは、強化学習とグラフニューラルネットワーク(GNN) を活用し、物理システムのシミュレーションをミリ秒単位で実行することで、設計の反復作業を高速化する。
- P-1 AIの初期の焦点は、エネルギー効率が重要となるデータセンターなどのHVAC(暖房・換気・空調)システムの設計である。
- 物理AIは、エンジニアリング分野における訓練データの不足という課題に対し、物理法則に基づいた合成データ生成で対応する。
- 物理AIの目標は、エンジニアを置き換えるのではなく、エンジニアの能力を拡張し、より多くの設計可能性を探求するのを支援する協調者となることである。
詳細解説
物理AIとは何か? なぜ今注目されるのか?
近年、AI(人工知能)は文章を生成したり、美しい絵画を描き出したりと、目覚ましい進化を遂げています。しかし、AIの新たなフロンティアとして「物理AI(Physical AI)」が登場し、注目を集めています。物理AIは、ソフトウェアが単に世界を解釈するだけでなく、現実世界のモノづくりを積極的に支援することを目指しています。
従来のAIが主に言語データや画像データを学習対象としてきたのに対し、物理AIは、摩擦、熱、振動、力といった現実世界の物理的な制約条件を学習します。これにより、例えば新しい機械部品の設計や、複雑なシステムの挙動予測など、物理法則が支配する領域での問題解決能力が期待されています。NVIDIAのCEOであるジェンスン・フアン氏は、この物理AIを新たな「産業革命」と呼び、その重要性を強調しています。
P-1 AIとデジタル見習い「Archie」
この物理AIの分野で先駆的な取り組みを行っているのが、航空宇宙業界の著名な経営者であるポール・エremenKo氏、アダム・ナーゲル氏、そしてDeepMind出身のアレクサ・ゴルディッチ氏らによって設立されたスタートアップ企業、P-1 AIです。
P-1 AIが開発しているのは、「Archie(アーキー)」と名付けられたAIシステムです。Archieは、単なる質疑応答システムや要約ツールではありません。エンジニアと協調して複雑な設計タスクに取り組む「デジタル見習い」として設計されています。具体的には、複数の物理現象が絡み合う「多物理システム」を理解し、様々な設計上のトレードオフ(一方を立てれば他方が立たない関係)を評価し、最終的にはHVAC(暖房・換気・空調)システムから宇宙船に至るまで、現実世界の機械設計を支援することを目指しています。ゴルディッチ氏は、将来的には恒星間宇宙船のような壮大な構想の設計にもArchieのようなツールが貢献する可能性を示唆しています。
Archieを支える技術的ポイント
Archieの核となる技術は、強化学習とグラフニューラルネットワーク(GNN) です。
- 強化学習とは、AIが試行錯誤を通じて、ある目標に対して最適な行動戦略を学習する手法です。Archieは、この強化学習を用いて、より良い設計案を自律的に探索します。
- グラフニューラルネットワーク(GNN) は、要素間の複雑な関係性をグラフ構造として表現し、それを学習するニューラルネットワークの一種です。物理システムは、部品間の相互作用や物理量の伝播など、複雑な関係性を持っています。GNNを用いることで、Archieはこれらの関係性を効率的にモデル化し、システムの挙動を予測することができます。
これらの技術により、Archieは物理システムのシミュレーションをミリ秒単位で実行できます。従来のシミュレーションワークフローでは、一つの設計案をテストするのに数時間から数日かかることもありましたが、Archieはこの時間を劇的に短縮し、設計の反復作業を大幅に高速化します。P-1 AIの目標は、単なる高速化だけでなく、エンジニアが実際にどのように思考し、制約の中で最適な解を見つけ出すかを模倣することにあります。ゴルディッチ氏は、「人間は基本的に一次の推論を行う…誤差の範囲は大きいのです」と述べ、現実世界の設計は単純な最適化問題ではなく、競合する制約間の交渉であることが多いと指摘しています。
Archieは、既存のCAD(Computer-Aided Design:コンピュータ支援設計)ツールやソルバー(物理現象を解析するソフトウェア)を置き換えるのではなく、それらと連携して動作するように訓練されています。タスクに適したツールを選択し、あたかも若手エンジニアのようにそれらを活用します。
初期ターゲットはHVACシステム
P-1 AIの当面の焦点は、実用的かつ商業的な緊急性の高い分野です。データセンターは、その消費電力の増大と発熱量の増加により、効率的な冷却システムが不可欠となっています。そこでP-1 AIは、Archieを産業用冷却分野、特にHVACシステムの設計に導入しています。この分野は、明確な物理的制約があり、商業的なニーズも高いため、Archieの能力を実証し、改良していく上で最適な領域と言えます。
Archieは既に、ファン、コンプレッサー、熱交換器といった構成部品レベルのモデルで訓練が進められています。単に抽象的な空気の流れをシミュレーションするのではなく、コスト、騒音、設置面積といった要素と空気流効率のバランスを取りながら、実際の設計エンジニアが行うような意思決定を学習しています。
訓練データの壁と合成データ生成
エンジニアリング分野でAIを活用する上での大きな課題の一つが、利用可能な訓練データの不足です。自然言語処理の分野では巨大なテキストデータセットが公開されていますが、エンジニアリングのデータセットは企業秘密であることが多く、断片化されているのが現状です。例えば、航空機の設計という高度に文書化された分野でさえ、アクセス可能なデータポイントは比較的少ないとゴルディッチ氏は指摘します。
この課題に対し、P-1 AIは物理法則に基づいたサンプリング戦略を用いて合成データを生成するというアプローチを取っています。これは、既存の解決策だけでなく、その周辺にある未踏の設計空間、つまり通常は見過ごされたり却下されたりする領域も含めてデータセットを構築するという考え方です。「時に最も興味深い設計は、最初は間違っているように見えるものなのです」とゴルディッチ氏は語ります。
AIはエンジニアの「協調者」
P-1 AIやIBM Researchの研究者が強調するのは、AIシステムは人間の能力を置き換えるのではなく、それを拡張し補強するために設計されているという点です。特に、不確実性が最も高く、失敗のコストが比較的低い初期段階の設計や仮説検証のフェーズにおいて、AIは人間だけでは見落としがちな多様なアイデアを提供し、それらを迅速に検証する上で非常に強力なツールとなり得ます。
問題の定義や最終的な判断は依然として専門家である人間の役割ですが、AIはそのプロセスを加速し、より革新的な解決策へと導く「協調者」としての役割を担うことが期待されています。
P-1 AIの展望
P-1 AIは、Radical VenturesやVillage Globalといった投資会社、そしてOpenAIやGoogleの投資家から2300万米ドルのシード資金を調達し、積極的に人材を採用しています。年内には業界向けのパイロット運用を開始する予定です。
同社の長期的なビジョンは、Archieの能力を電気自動車から航空宇宙分野へと拡大し、さらにはまだ存在しない未来の技術の創造において有意義に協調できる汎用AIを構築することです。「物理AIで何ができるか、私たちはまだそのほんの始まりにいるのです」とゴルディッチ氏は言います。「しかし、もし私たちが正しく進めば、これは将来私たちが全てのものを設計する方法の基盤となる可能性があります。」
まとめ
本稿では、物理現象を理解し、現実世界のモノづくりを支援する「物理AI」という新しい技術と、その開発をリードするP-1 AI社の取り組みについてご紹介しました。P-1 AIが開発する「Archie」は、強化学習やグラフニューラルネットワークといった先端技術を駆使し、エンジニアの設計プロセスを革新しようとしています。
物理AIは、訓練データの不足といった課題を乗り越え、HVACシステムのような身近なものから、宇宙船のような壮大な構想まで、幅広い分野での応用が期待されています。重要なのは、AIが人間を置き換えるのではなく、人間の創造性や専門知識を増幅させる「協調者」として機能するという視点です。物理AIの進化は、これからのエンジニアリングのあり方、未来を形作る方法に大きな影響を与える可能性を秘めています。