はじめに
AI開発企業Anthropicが2025年10月14日、AIの経済的影響に対する政策対応を探る論考を公開しました。本稿では、同社が提示した3つのシナリオ別に整理された9つの政策アイデアについて解説します。
参考記事
- タイトル: Preparing for AI’s economic impact: exploring policy responses
- 発行元: Anthropic
- 発行日: 2025年10月14日
- URL: https://www.anthropic.com/research/economic-policy-responses
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要点
- Anthropicは、AIの経済的影響の規模と速度に応じて、3つのシナリオ別に政策アイデアを整理した
- 「ほぼすべてのシナリオ」向けには、労働力訓練や許認可改革など4つの政策を提示している
- 「中程度の加速シナリオ」では、失業者支援プログラムやAI課税など2つの政策が検討対象となる
- 「急速シナリオ」では、ソブリン・ウェルス・ファンドの創設や付加価値税の導入など3つの政策が提案されている
- これらの政策アイデアは、Anthropicの経済諮問委員会やシンポジウム参加者との議論から生まれたもので、同社の確定的な政策提言ではない
詳細解説
AIの経済的影響への準備の必要性
Anthropicは、9月に発表したAnthropic Economic Index(経済指標)において、ユーザーがClaudeに完全なタスクを委任する傾向が強まっていることを観察しました。この傾向は、AIモデルがより長時間独立して作業するようになり、より多くの雇用主が生産性向上のためにAIを採用するにつれて加速すると予想されています。
ただし、労働市場への影響については不確実性が高いと同社は認めています。AIの経済的影響の規模、速度、形態によって、必要となる政策対応は異なるため、複数のシナリオに備えることが重要だと考えられます。
この背景には、技術変化が労働市場に与える影響に関する長年の議論があります。過去の産業革命や自動化の波でも同様の懸念が生じましたが、今回のAI技術は知的労働も含む広範な職種に影響を与える可能性があるという点で、従来とは異なる側面があると指摘されています。
3つのシナリオ分類
Anthropicは、政策アイデアを3つのシナリオ別に整理しています。
第1のシナリオは「ほぼすべてのシナリオ」で、労働市場への悪影響が比較的限定的な場合です。これらの政策は、AIの影響の大小にかかわらず検討に値するとされており、多くは他の文脈でも以前から提案されてきたものです。
第2のシナリオは「中程度の加速シナリオ」で、AIが労働力の大部分に対して測定可能な賃金低下や失業をもたらす場合です。この状況では、失業者に対するより大規模な財政支援が必要になる可能性があります。
第3のシナリオは「急速シナリオ」で、劇的な失業と格差の悪化を伴う可能性がある場合です。これらの提案ははるかに野心的で、大きく異なる経済状況に対応するために設計されています。
このシナリオ分類は、政策立案において「準備のパラドックス」とも呼べる課題に対応しようとするものと言えます。つまり、最悪のシナリオに備えすぎると過剰な規制になりかねず、楽観的すぎると準備不足になるというジレンマです。
ほぼすべてのシナリオ向けの政策
第1のカテゴリーには4つの政策アイデアが含まれます。
労働力訓練助成金への投資
American Compassが提案するWorkforce Training Grantモデルが紹介されています。Anthropicによれば、この制度では政府が正式な訓練プログラムを持つ訓練生ポジションを設ける雇用主に対して、年間1万ドル(米国の場合)の補助金を直接提供します。資金源としては、既存の高等教育補助金の転用が提案されていますが、AI消費への課税など他の財源も検討に値するとされています。
職業訓練プログラムは多くの国で既に存在していますが、このモデルの特徴は雇用主への直接支援という点にあります。実際の業務環境での訓練は、座学よりも実践的なスキル習得につながる可能性があると考えられます。
労働者の維持と再訓練に対する税制優遇の改革
Mercatus CenterのRevana Sharfuddinによる提案が取り上げられています。米国の税制は、ボーナス減価償却を通じてAIシステムを即座に経費計上できる一方で、労働者訓練費用の控除には多くの制限があると指摘されています。この税制上の偏りを是正することで、再訓練のコストを解雇のコストに対して相対的に引き下げることができると考えられます。
法人税の抜け穴を閉じる
税務専門家David Gamageによる改革案が示されています。大企業が事業体レベルの課税を回避できる「パートナーシップ・ギャップ」を閉じることや、利益移転と戦うための税配分の近代化などが含まれます。これらの改革は、AIによって無形資産ベースのビジネスモデルからの利益がさらに重要になる可能性がある中で、特に関連性が高いと考えられます。
AI基盤整備の許認可と承認の加速
Anthropicが一貫して主張してきた政策です。データセンター、送電インフラ、発電設備などの大規模なAI基盤整備を加速するために、許認可プロセスの改革が必要だとされています。米国では、土地利用や環境承認、送電プロジェクトの州規制審査、電力網への接続承認という3つの規制プロセスが、建設を何年も遅らせる可能性があります。
これらの遅延は、AI開発競争において国際的な競争力を損なうリスクがあるだけでなく、生産性や雇用成長を減速させる可能性もあると指摘されています。
中程度の加速シナリオ向けの政策
第2のカテゴリーには2つの政策アイデアが含まれます。
AI失業に対する貿易調整支援の確立
貿易調整支援(TAA)モデルをAI時代に適応させる提案が検討されています。ペンシルバニア大学のIoana Marinescu氏は、これを「AIによって職を失った人々を支援する」ための「AI保険」と表現しています。
TAAは、貿易自由化によって職を失った労働者に新しいスキル習得の機会や支援を提供する米国の既存プログラムです。Suchet MittalとSam Manningは、同様の規模(年間約7億ドル)でAutomation Adjustment Assistance(AAA)プログラムを開始し、AI主導の失業のペースと規模に応じてプログラムの規模を増減させるメカニズムを組み込むことを提案しています。
資金源として、一定以上の時価総額を持つ企業のAI関連収益への課税が検討されており、これによりAI部門が技術によって失業した労働者を支援する直接的なメカニズムが生まれる可能性があります。
計算資源やトークン生成への課税
バージニア大学のLee LockwoodとAnton Korinek(Anthropicの経済諮問委員会メンバー)が提案しています。彼らは、「トークン生成、ロボット、ロボットサービス、デジタルサービス」に対するさまざまな課税の研究を提案しています。
これらの課税は、経済におけるAIの発展段階に応じて異なる潜在的な利益とリスクを提供すると考えられます。エンドユーザーに販売されるAI生成トークンへの課税(「トークン税」)は、たとえ強力なAIが労働の相対的な経済的役割を減少させても、人間が経済の主要な消費者であり続ける間は望ましいかもしれません。
一方、強力なAIシステム自体が経済資源の主要な消費者となる段階に達した場合、計算資源やその他のハードウェアへの課税など、AIの資源蓄積への課税がより効果的になる可能性があります。
Anthropicは、これらの課税が同社の収益と収益性に直接影響を与えるにもかかわらず、真剣に研究する価値があると述べています。これらの課税は、本稿で議論されている他のいくつかの財政プログラムを含む、重要な財政プログラムのための収入源となる可能性があるためです。
急速シナリオ向けの政策
第3のカテゴリーには3つの政策アイデアが含まれます。
AIに出資する国家ソブリン・ウェルス・ファンドの創設
市民と政府がAIの経済的リターンにより大きな利害関係を持つことを目指す提案です。ソブリン・ウェルス・ファンドは、国家がAI関連資産のポジションを取得することを可能にします。AI部門が経済的富の不釣り合いな割合を獲得するシナリオでは、政府投資は部門の行動を形成し、「AI由来の富をより公平に分配する」可能性があります。
ソブリン・ウェルス・ファンドは、資源国が石油などの天然資源収入を運用する際によく使われる仕組みですが、AIという新しい「富の源泉」に対しても同様のアプローチを適用しようとする試みと言えます。
英国のCentre for British Progressは、類似の概念として「AI Bond」を提案しています。これは、「AIスタック」への適切な投資を確保してAIの利益を獲得し、その後、AI研究職がロンドンなどの少数の都市に集中する中でも、英国全体により均等にリターンを分配することを目指すものです。
付加価値税(VAT)の採用または近代化
G7諸国のうち6カ国が国家レベルのVATを持っており、OECD加盟38カ国のうち37カ国がVATを持っていますが、米国は例外です。
AIが経済を変革するにつれて、価値の生産における労働の割合が大幅に減少する可能性があります。VATのような消費への課税へのシフトは、中核的な政府活動に資金を供給するために必要になる可能性があると考えられます。また、VAT徴収は、経済生産ネットワークに関する詳細な情報を政府に提供するため、技術的・経済的変化が急速に進む可能性がある時期には特に価値があると指摘されています。
MITスローン経営大学院のJohn Horton氏(Anthropicの経済諮問委員会メンバー)は、「付加価値税は非歪曲的で、ある程度自己執行的です」と述べています。
AIの経済シェア拡大に対応する新しい収入構造の実装
David Gamageは「低税率の事業資産税」を所得税の補完として検討することを提案しています。彼の理論的根拠は、「所得税は会計操作に直面し、資産税は資産評価の課題に直面する。両方を使用することで、システムは回避が難しくなる」というものです。
Gamageは、このシステムを特定の資産運用会社が顧客に請求する料金構造に例えています。つまり、「資産税は、蓄積された資本を保護する法的インフラを提供するための管理費として機能し、所得税は州市場で生み出された利益のためのパフォーマンス料金として機能する」というわけです。この考え方は、人間の労働の価値が変化する中で、政府が適応する可能性のある1つの方法を表していますが、この分野には探求すべき多くのアイデアがあると同社は考えています。
今後の取り組み
Anthropicは、2025年秋にEconomic Futures Programを拡大するために1,000万ドルの投資を発表しました。この投資は、AIの経済的影響と政策アイデアに関する厳密な実証研究を支援するとともに、シンポジウムシリーズを拡大するために使われます。9月にワシントンDCで開催されたイベントに続き、11月にはロンドンでイベントが予定されています。
同社は、これらの提案は確定的な推奨事項ではなく、より深い研究、政策開発、公開討論のための出発点であると強調しています。AIの経済的影響は、タイミングと規模の両面で不確実であり、異なるシナリオには異なる対応が必要になると考えられます。
ただし、研究者、政策立案者、AI業界間の積極的な関与が不可欠であることは明らかです。AIの経済的影響の形が分かる前にこれらの選択肢を検討することで、さまざまな可能性のある未来により良く備えることができ、労働者とコミュニティがAIの潜在能力から十分に利益を得られる位置につくことができるでしょう。
まとめ
Anthropicは、AIの経済的影響に対する政策対応として、影響の規模と速度に応じた3つのシナリオ別に9つの政策アイデアを提示しました。労働力訓練から許認可改革、AI課税、ソブリン・ウェルス・ファンドまで、幅広い提案が含まれています。これらは確定的な提言ではなく、今後の議論の出発点として位置づけられていますが、AI企業自らが経済的影響への備えを呼びかけている点は注目に値します。今後の影響に関して、広く議論の場が持たれることを期待します。