はじめに
本稿では、近年の急速な発展により、私たちの生活や社会に大きな変化をもたらすと期待されている人工知能(AI)について、その最前線で研究開発をリードするGoogle DeepMindのCEO、デミス・ハサビス氏の洞察をご紹介します。
引用元記事
- タイトル: Google’s DeepMind CEO says there are bigger risks to worry about than AI taking our jobs
- 発行元: CNN
- 発行日: 2025年6月4日
- URL: https://edition.cnn.com/2025/06/04/tech/google-deepmind-ceo-ai-risks-jobs
- タイトル: Google DeepMind’s CEO Thinks AI Will Make Humans Less Selfish
- 発行元: WIRED
- 発行日: 2025年6月4日
- URL: https://www.wired.com/story/google-deepminds-ceo-demis-hassabis-thinks-ai-will-make-humans-less-selfish/
要点
- ハサビス氏は、AIによる「雇用の終焉」よりも、AI技術が悪用されるリスクや、高度な自律型AIモデルを制御するためのガードレール(安全策)の欠如をより大きな懸念事項であると指摘する。
- 特に懸念されるのは、人間レベルの知能を持つとされるAGI(汎用人工知能)の悪用の可能性である。「悪意のある者がこれらの技術を有害な目的に転用する可能性がある」と述べている。
- AIの悪用事例として、政府高官になりすました音声メッセージの生成や、ディープフェイクポルノの作成などが既に報告されており、AIがもたらす国家安全保障上の「壊滅的な」リスクも指摘されている。
- ハサビス氏は、AIの利用方法や安全確保に関する国際的な合意の必要性を訴えている。
- 将来的には、人々がAI「エージェント」を日常的に利用し、雑務の処理から生活を豊かにする提案まで、多岐にわたるサポートを受ける未来を予測している。
- AIは労働力に変化をもたらすが、必ずしも仕事を根絶するわけではなく、新しい種類の仕事を生み出し、生産性を向上させる可能性も示唆している。ただし、AIが生み出す追加の生産性を社会全体でどのように分配するかが課題となる。
- AGIが実現すれば、病気の治療、新しいエネルギー源の発見など、世界の「根本的な問題」を解決し、人類が宇宙に進出するような「黄金時代」をもたらす可能性があると期待している。
- AGIによる「根本的な豊かさ」は、資源の奪い合いといったゼロサムゲーム的な思考から、人類がより利他的になり、協力し合える社会への転換を促す可能性があると述べている。
- AGI開発は非常に競争が激しい分野であるが、その開発競争においては、システムの安全性や価値観の設計が極めて重要であると強調している。
詳細解説
AIがもたらす真のリスクとは何か?
昨今、「AIに仕事が奪われるのではないか」という懸念が広く聞かれます。実際に、AI研究所AnthropicのCEOは「AIがエントリーレベルのホワイトカラーの仕事の半分を消滅させる可能性がある」と警鐘を鳴らしています。しかし、Google DeepMindのCEOであるデミス・ハサビス氏は、この「雇用の危機」以上に深刻なリスクが存在すると指摘します。
彼が最も懸念しているのは、AI技術、特にAGI(Artificial General Intelligence:汎用人工知能)と呼ばれる、人間と同等かそれ以上の広範な知的作業をこなせるAIが悪意を持った者の手に渡ることです。AGIはまだ理論上の存在ですが、実現すればその影響力は計り知れません。ハサビス氏は「悪意のある者がこれらの技術を、例えば偽情報の拡散、サイバー攻撃、自律型兵器の開発など、有害な目的に転用する可能性がある」と警告しています。
実際に、AIは既に悪用され始めています。FBIは、AIによって生成された偽の音声メッセージが政府高官になりすますために使われた事例を報告しています。また、米国務省が委託した報告書では、AIが国家安全保障に対して「壊滅的な」リスクをもたらす可能性があると結論付けられています。さらに、個人の尊厳を傷つけるディープフェイクポルノの作成もAIによって容易になっており、社会問題化しています(これに対して米国では「Take It Down Act」が成立し、非合意の露骨な画像のオンライン共有を違法としています)。

このような状況を踏まえ、ハサビス氏は「これらの強力なシステムへのアクセスを悪意のある者から制限しつつ、善良な人々が多くの素晴らしいことを実現できるようにするにはどうすればよいか」という大きな課題があると述べています。この課題に対処するためには、技術的な対策だけでなく、AIの利用に関する国際的なルール作りや規制が不可欠であると彼は主張しています。現在の地政学的な状況を考えると困難は伴いますが、AIがより高度になるにつれて、国際協力の必要性は世界中でより明確に認識されるようになるだろうと期待を寄せています。
AIエージェントが変える未来の日常
ハサビス氏は、私たちがAIを日常的に活用する未来についても言及しています。それは、個々人がパーソナルなAI「エージェント」を所有し、様々なタスクをAIに代行させるというものです。Googleも、検索機能へのAI統合やAI搭載スマートグラスの開発などを通じて、このビジョンに取り組んでいます。
ハサビス氏が描くAIエージェントは、「普遍的なAIアシスタント」とも呼べる存在です。日々の雑務や管理タスクをこなしてくれるだけでなく、私たちの生活を豊かにするための提案(例えば、おすすめの本や映画、あるいは会うべき友人など)もしてくれるといいます。これにより、私たちはより創造的な活動や人間的な繋がりに時間を使えるようになるかもしれません。
AIと仕事の未来:悲観論だけではない
AIの進化は、間違いなく現在の仕事のあり方を変えるでしょう。AIが特定のタスクにおいて人間よりも優れた能力を発揮し始めるにつれて、一部の仕事がAIに置き換わる可能性は否定できません。Meta社のマーク・ザッカーバーグCEOは、2026年までに同社のコードの半分がAIによって書かれるようになると予測しています。
しかし、ハサビス氏は、AIが全ての仕事を奪うという単純な未来像には懐疑的です。彼は、インターネットの登場がそうであったように、技術革新は既存の仕事を置き換える一方で、全く新しい種類の仕事を生み出し、全体の生産性を向上させてきた歴史を指摘します。「今回も同様のことが起こるかどうかはまだ分からない」としながらも、AIが私たちの生産性を飛躍的に高め、ある意味で私たちを「超人」のような存在にするツールになり得ると述べています。
ただし、ここで重要なのは、AIが生み出すであろう莫大な生産性の向上とその恩恵を、社会全体でどのように公平に分配していくかという課題です。この点については、社会全体での議論と仕組み作りが必要になると彼は認識しています。
AGIが拓く「黄金時代」と人類の変容
ハサビス氏のAIに対するビジョンは、リスク管理や生産性向上に留まりません。彼は、AGIが実現した未来に対して、非常に楽観的で壮大な展望を抱いています。彼によれば、AGIは人類が長年直面してきた「根本的な問題(root-node problems)」、例えば、難病の治療法開発、クリーンで持続可能な新しいエネルギー源の発見、さらには気候変動といった地球規模の課題解決に貢献できる可能性があるといいます。
もしAGIがこれらの問題を解決できれば、人類は「根本的な豊かさ(radical abundance)」の時代、すなわち一種の「黄金時代」を迎えることができるとハサビス氏は語ります。それは、物質的な制約から解放され、人類が真に繁栄し、さらには星々へと進出し銀河を植民地化するような未来です。彼は、このような変化が2030年代に起こり始めると考えています。
さらに興味深いのは、AGIがもたらす豊かさが、人間の行動様式や社会のあり方そのものを変える可能性を指摘している点です。現在の世界では、水資源やエネルギーといった限りある資源をめぐって国家間、あるいは個人間で競争や対立が絶えません。これは、多くの場合「誰かが得をすれば誰かが損をする」というゼロサムゲーム的な思考に基づいています。
しかし、ハサビス氏は、AGIが例えば安価でクリーンなエネルギー(核融合など)を実現することで、水不足のような問題が根本的に解決される可能性を示唆します。そうなれば、資源を奪い合う必要はなくなり、人々の思考はゼロサムからノンゼロサム(協力すれば全員が得をする)へと転換し、結果として人類はより利他的になり、自己中心的な振る舞いが減るのではないかと期待しているのです。
彼は「AGIが私たちに根本的な豊かさをもたらし、そして――ここからは偉大な哲学者や社会科学者の関与が必要になると思いますが――私たちは社会としての考え方をノンゼロサムへと移行させるのです」と述べています。
AGI開発競争と倫理
AGIの開発は、現在、Googleを含むいくつかの企業や国家が巨額の資金を投じてしのぎを削る、非常に競争の激しい分野です。この競争において、最初にAGIを達成した者が圧倒的な優位性を得る「ハードテイクオフ」シナリオの可能性も議論されています。
ハサビス氏は、このような競争の激しさを認識しつつも、AGI開発においてはスピードだけでなく、安全性や倫理観の確立が極めて重要であると強調します。「最初のAIシステムが誤った価値観で構築されたり、安全でない方法で構築されたりすれば、それは非常に悪いことになる可能性があります」と彼は警鐘を鳴らします。そのため、Google DeepMindでは、AIシステムの制御可能性や解釈可能性(AIがなぜそのような判断をしたのかを人間が理解できるようにする技術)の研究にも力を入れていると述べています。
彼自身のAI開発への情熱は、子供の頃に抱いた「現実の本質を理解したい」という探求心に根差しています。ゲームのAI開発からキャリアをスタートし、AlphaFoldでタンパク質の構造予測という科学的大発見を成し遂げたハサビス氏は、AGIによって物理学の新たな理論が発見されるような、真に独創的な能力を持つAIの登場を夢見ています。
まとめ
デミス・ハサビス氏の言葉からは、AI、特にAGIが秘める計り知れない可能性と、それと同じくらい大きなリスクの両面が浮かび上がってきます。AIは、私たちの仕事のあり方を変え、生活を便利にし、さらには人類が直面する困難な問題を解決する力を持つ一方で、悪用されれば社会に深刻な脅威をもたらす危険性もはらんでいます。 重要なのは、AI技術の発展を楽観視したり悲観視したりするだけでなく、その影響を多角的に理解し、社会全体で賢明な利用方法を模索していくことです。ハサビス氏が提唱するように、国際的な協力のもとでAIの倫理規範や安全対策を確立し、AIが生み出す恩恵を広く分かち合えるような仕組みを構築していくことが、これからの私たちに求められるでしょう。AIとの共存は、技術的な課題であると同時に、私たち自身の価値観や社会のあり方を問い直す機会でもあると言えるのかもしれません。