はじめに
Harvard Business Reviewが2025年12月22日に掲載した論考では、AIが職場での学習や人材育成のあり方を根本的に変えつつあると指摘しています。本稿では、ロンドン・ビジネス・スクールのLynda Gratton教授が提起する4つの問題提起をもとに、AI時代における人材育成の課題と、リーダーが今考えるべき論点について解説します。
参考記事
- タイトル: AI Is Changing How We Learn at Work
- 著者: Lynda Gratton
- 発行元: Harvard Business Review
- 発行日: 2025年12月22日
- URL: https://hbr.org/2025/12/ai-is-changing-how-we-learn-at-work
要点
- AIは学習を加速するが、加速された学習と人間の発達(アイデンティティの変容)は同じではない
- パンデミック時のデジタルツールが会議を50%増加させたように、AIはコンテンツの過剰生成によって思考の時間を奪う可能性がある
- 共感力は難しい会話や対人関係の摩擦を通じて育つが、AIがそれらを代行することで育成機会が失われる懸念がある
- AIが意思決定を代行・誘導することで、自己選択の習慣が弱まり、人間の主体性(agency)が損なわれる可能性がある
詳細解説
AIは熟達への道筋を消失させるのか
Gratton教授は、ワークショップで経営幹部たちに「あなた自身の熟達への道筋」を語ってもらう問いかけから始めています。幹部たちは、長時間の実践、失敗から得た知恵、メンターからのフィードバックといった経験的学習が、自身の専門性、レジリエンス、判断力、そしてアイデンティティを形成したと振り返りました。
しかし、AIがこの初期段階の仕事を代行すると、何が失われるのでしょうか。ある銀行幹部は「若手アナリストが苦労しなくなったら、考える力は育つのか」と懸念を表明しています。AIが戦略メモを起草し、データを分析し、最初の20のアイデアを生成するとき、反復と学習による熟達への道筋はどうなるのか、という問題です。
この点について、Gratton教授は重要な区別を示しています。AIは間違いなく学習を加速しますが、「加速された学習」と「発達」は同じではないと指摘します。加速は生産性を高めますが、発達はアイデンティティを変容させるものであり、両者は互換性がないということです。
熟達への道筋は、単なる知識の蓄積ではなく、困難な経験を通じた自己形成のプロセスと考えられます。教育心理学では「望ましい困難(desirable difficulties)」という概念があり、適度な困難が長期的な学習効果を高めることが知られています。AI導入において生産性向上を追求するあまり、こうした発達に不可欠な経験を奪ってしまう可能性があります。
静けさを失わせる懸念
Gratton教授は、パンデミック時の教訓を振り返るよう促しています。ZoomやTeamsといった「パンデミック技術」は、特別な状況下で継続的に働くことを可能にしました。しかし、同時に意図しない結果ももたらしました。会議数が50%増加し、業務負荷が激化し、深い集中作業の時間が大幅に減少したのです。
AIでは、このパターンがさらに大規模に繰り返される可能性があります。パンデミック技術が会議の量を増やしたように、AIはコンテンツの量を増やします。プレゼンテーション、レポート、草稿が、ほとんど摩擦なく大量生産されるようになります。
ある経営幹部は「AIによって生成される資料は増えているが、思考する時間は減っている」と表現しています。AI生成のスライド資料や要約文書が、チームが解釈したり優先順位をつけたりできる速度を超えて増殖しているという報告が増えているのです。
本来、知識労働の自動化は、創造的で深い思考のための時間を生み出すはずでした。しかし実際には、過剰な情報が学習に不可欠な条件「静けさ」、「内省」、「深く考える余白」を奪っているという現実があります。
この「情報過多」の問題は、認知科学でいう「認知的負荷」の観点からも理解できます。人間の作業記憶には限界があり、処理すべき情報が増えすぎると、かえって理解や学習が妨げられます。AIツールの導入において、「できるから使う」ではなく、「価値を生むか」という判断基準が重要になると考えられます。
人間性を鈍らせる可能性
経営幹部が最も価値を置く能力は、同時に育成が最も難しいものでもあります。それは、識別力、直観、道徳的推論、そして何よりも共感力です。共感力は、感情的なニュアンスへの繰り返しの接触、会話、緊張や曖昧さを乗り越える対人作業を通じて、体系的に構築できることが示されています。
AIはすでに認知的共感(「あなたがどう感じているか検出できる」)の側面をシミュレートし、感情的共感(「あなたの感情を反映できる」)を近似することができます。しかし、行動的側面「気にかけて行動する」は明確に人間的なものであり、学習を通じて獲得されるものです。
Gratton教授が経営幹部から最も頻繁に聞くのは、AIが共感を置き換えることへの恐れではなく、共感が育つ文脈を置き換えることへの恐れです。共感は実践を通じて成長します。微妙な手がかりを読み取ること、葛藤を管理すること、難しい会話に臨むこと、プレッシャー下の同僚を支援すること、チームで脆弱性を示すこと、これらの摩擦点が感情的能力を試し、強化します。
ある経営幹部は「AIが難しい会話を処理したら、人々はどうやってそれを学ぶのか」と問いかけています。別の幹部は「マネージャーたちは、自分で理解しようとする前に、ツールにトーンを解釈させている」と振り返っています。
AIが人間のやり取りを仲介すると、共感を育む経験「接触」、「摩擦」、「相互作用」への露出が減少します。技術が提供する利便性が、まさに共感、判断力、関係性能力を形成する条件を取り除いてしまうのです。
組織心理学の研究では、対人スキルは実践と振り返りを通じて発達することが確認されています。AIツールの活用により効率化を図る一方で、意図的に人間同士の直接的な相互作用の機会を設計・保護することが、人材育成において重要になると考えられます。
選択と自己同一性を侵食する危険性
AIが組織のワークフローに深く組み込まれるにつれ、タスク配分からレコメンデーションシステムまで、仕事の遂行方法だけでなく、人々の選択や学習の仕方も再形成されています。多くの新しいAI対応ツールは、行動を促し、次のステップを提案し、意思決定を自動化します。しかしそうすることで、人々から内省し、選択し、自分の決定に責任を持つ能力も奪っているのです。
従業員は、人間の成長と発達の原動力である主体性(agency)を失う危険にさらされています。経営幹部たちはこれを認識しています。ワークショップで、彼らは独立した判断を求める瞬間が減り、ますます誘導されていると感じる能力開発の道筋について語っています。
ある経営幹部は最近、「システムが常に次のステップを知っているなら、部下たちはいつ自分で選択することを学ぶのか」と問いかけました。この懸念は発達的なものです。自己決定の習慣が弱まったとき、個人の選択、主体性、アイデンティティはどうなるのでしょうか。
この問題は、心理学における「自己決定理論」と関連していると思います。人間の内発的動機づけには、自律性(自分で決める感覚)が不可欠とされています。AIシステムが常に最適解を提示する環境では、この自律性の感覚が損なわれ、長期的には学習意欲や創造性の低下につながる可能性があります。
したがって、AI対応システムの設計において、人間の選択の余地を意図的に保持することが重要です。これには、内省、意思決定、探索のための瞬間を意図的に残すことが含まれます。
まとめ
Gratton教授の論考は、AIが仕事を変革することは疑いないが、AIが学習をどう変えるかは人間が決定できる、そして決定すべきだと主張しています。熟達への道筋、内省の時間、共感を育む機会、そして自己選択の習慣。これらはすべて、AIの効率性追求の中で失われる可能性があります。重要なのは、リーダーが「AIは何ができるか」ではなく「これは価値を生むか」「人間の発達を守れるか」を問い続けることではないでしょうか。
