はじめに
Googleが2025年11月17日、教育分野におけるAI活用の方向性を示すスピーチ全文を公式ブログで公開しました。本稿では、同社の学習・サステナビリティ部門の最高技術責任者Ben Gomes氏がロンドンで開催された「Google AI for Learning Forum」で語った内容をもとに、AIが教育にもたらす可能性と課題、そしてGoogleのアプローチについて解説します。
参考記事
- タイトル: AI in education: From accessing information to achieving understanding
- 著者: Ben Gomes
- 発行元: Google Blog
- 発行日: 2025年11月17日
- URL: https://blog.google/outreach-initiatives/education/ben-gomes-speech-transcript/#google-approach
要点
- GoogleはAIを教育者と学習者の関係を「強化」するツールと位置づけ、人間の繋がりを中核に置く方針を明確にしている
- AIの2つの主要な力として、深いインタラクション能力と情報変換能力を挙げ、これらが学習のパーソナライゼーションと教員の負担軽減に寄与すると説明している
- 安全性、正確性、批判的思考への影響、普遍的アクセスという4つの課題を認識し、特に「5%問題」(特権層だけが恩恵を受けるリスク)への警戒を表明している
- 学習科学に基づく開発と、教育関係者とのパートナーシップを2つの柱とするアプローチを採用し、「LearnLM」という教育学的原則を組み込んだモデル開発を進めている
詳細解説
学習とテクノロジーの現状認識
Ben Gomes氏はスピーチの冒頭で、学習を「人間を他の種と区別する基本的本能」と定義しました。人から人へ能力を伝達し、人類全体の能力空間を拡大する営みとして学習を捉えています。
Googleによれば、教育の形式化において大きな進展があり、現在では初等教育年齢の児童の90%以上が実際に学校に在籍しているとのことです。しかし、この進展は不均一で脆弱だと指摘されています。具体的には、パンデミックによる学習損失が続いており、PISA(学習到達度調査)のスコアが記録上初めて世界的に低下したことが挙げられています。
教員側の課題も深刻です。Googleの発表によれば、2030年までに世界で4400万人の教員不足が予測されており、多くの教員が燃え尽き症候群に陥っているとされています。このような状況下で、AIが言語を操作する能力を獲得し、教育現場に登場したという文脈が示されています。
教育分野では長年、さまざまなテクノロジーが導入されてきた歴史があります。インターネットや検索エンジンは情報へのアクセス障壁を取り除きましたが、AIはそれを超えて情報との相互作用の方法そのものを変える可能性があると考えられます。
AIが学生にもたらす可能性
学生の視点から見たAIの最大の利点は、深くパーソナライズされた学習体験の提供です。Googleは、好奇心はあるものの概念や複雑なアイデアに苦労している学生を例に挙げています。AIの情報変換能力により、学生は自分が関連づけられる方法でコンテンツを受け取ることができ、「何でも学べる」という感覚を持てるようになるとされています。
特に注目されているのが「最近接発達領域」(zone of proximal development)への対応です。この概念は発達心理学者のヴィゴツキーが提唱したもので、学習者が自力では達成できないが、適切な支援があれば達成できる課題の範囲を指します。AIはこの領域を維持し、学生が挑戦しているが圧倒されていない状態を保つことができると説明されています。
Googleによれば、AIモデルはアイデア同士を結びつける能力に優れており、教科書の無味乾燥な内容を学生にとって意味のあるものに変換し、学習意欲を高めることができるとのことです。さらに、コンテンツをポッドキャスト、ビデオ、マインドマップなどの没入型フォーマットに変換することで、学習障害を持つ人々にこれまでにないアクセシビリティを提供できる可能性があります。
この技術により、「誰でも何でも学べる」という状態を初めて実現できるツールになる可能性があると位置づけられています。
教育者への支援の方向性
教育者にとって、AIは強力な教育アシスタントになり得るとGoogleは説明しています。過重な負担を抱え燃え尽きかけている教育者に対し、レッスンプランの作成、指導の支援、学生向けアクティビティの作成といった管理業務を担うことができるとされています。
重要なのは、この支援が教育者の根本的な役割を置き換えるものではないという点です。Googleの発表では、AIの目的は教育者の時間を解放し、その時間を学生と過ごすこと、インスピレーションを与えること、動機づけること、喜びを創造すること、好奇心を育むこと、そして生涯学習への愛を刺激することに使えるようにすることだと明言されています。
Ben Gomes氏は自身の母親(化学教師)の例を挙げ、人々にインスピレーションを与えるのは本ではなく、学習への愛を刺激する人との繋がりだと強調しました。この人的な繋がりこそが、AIと教育を考える上での「ノーススター」(指針)だとされています。
教育の歴史を振り返ると、優れた教師との出会いが人生を変えた経験は多くの人が持っています。その人間的な触発と、学生を支援する実効的なテクノロジーが組み合わさることで「魔法」が生まれる可能性があり、世界中のより多くの人々がそのような経験をする可能性が開かれると考えられています。
AIと教育が直面する4つの課題
Googleは教育AIの可能性を認識する一方で、課題についても明確に認識しています。Ben Gomes氏は、テクノロジーとテクノロジストが過去に大きな約束をしてきた歴史から学ぶ必要があると述べ、テクノロジーそのものが深く根ざした課題を解決できるわけではないと指摘しました。
第一の課題は安全性です。若い学習者に提供されるものが安全であることを確保することが最優先事項とされています。Googleは敵対的テスト(adversarial testing)を実施するとともに、教育関係者との協力により実際の状況を監視し、新たな課題に対処する体制を整えているとのことです。
第二の課題は正確性です。Googleによれば、これらのモデルは精度が大幅に向上していますが、まだ改善の余地があるとのことです。学生を誤解から正しい理解へと優しく導き、別の幻覚(ハルシネーション)へと誘導しないようにするため、モデルの精度向上を続けているとされています。
第三の課題は批判的思考への影響です。「学生が思考を機械に委ねてしまうのではないか」という懸念について、Googleは可能性を認めつつも、適切な設計で対処できると考えています。学習は「生産的な苦闘」(productive struggle)についてであり、最大の苦闘ではないと説明されています。世界中で起きている学習の多くは、コンテンツのレベルが適切でない、学生に響かない様式である、関連づけられないトピックであるといった理由で「非生産的な苦闘」になっていると指摘されています。AIはこの非生産的な苦闘を排除し、学習プロセスの最も重要な部分である批判的思考スキルの獲得に学生と教師が集中できるようにすることができると考えられています。
第四の課題は普遍的参加です。Googleは、これらのツールが世界中の誰もが利用できるようにし、既存の教育格差を拡大させないことを確保する必要があると強調しています。特に「5%問題」と呼ばれるリスク、つまり最も特権的で、裕福で、優秀で、意欲的な学生だけがAIの恩恵を受け、他の学生がさらに取り残されるリスクが主要な課題として認識されています。新たなデジタル・ディバイドの創出を許してはならないとし、モデルを世界中で、学生が使用する多くの言語で普遍的にアクセス可能にすることが必要だとされています。さらに、世界中の教師がAIを学習し使用するためのベストプラクティスについて訓練を受けなければならないとも指摘されています。
これらの課題認識は、AI技術の開発において、単なる技術的な進歩だけでなく、社会的・倫理的な側面への配慮が不可欠であることを示していると言えます。
Googleのアプローチ:学習科学とパートナーシップ
Googleのアプローチは2つの原則によって導かれています。
第一の原則は、学習科学に基づいた開発です。Googleは、より多くのテクノロジーやより大きなモデルが解決策そのものにはならないことを理解していると述べています。GeminiのようなAIモデルは、教育学的原則に基づいて開発されているとのことです。具体的には、認知負荷の管理、能動的学習の促進、好奇心の刺激といった原則が挙げられています。この取り組みは「LearnLM」と呼ばれ、モデル全体に組み込まれているとされています。
LearnLMという名称から、これはGoogleのLarge Language Model(大規模言語モデル)の教育特化版であると推測されます。認知負荷理論は教育心理学の重要な概念で、学習者の作業記憶の容量には限界があり、適切に管理しないと学習効果が低下するという考え方です。AIがこの理論を組み込むことで、学習者に過度な負担をかけずに効果的な学習体験を提供できる可能性があります。
第二の原則は、積極的なパートナーシップです。Googleによれば、AIの約束は積極的なパートナーシップによってのみ達成できるとのことです。世界中の人々にとって最も有用で共鳴するような方法でこれらの技術を開発できるようにするため、教育関係者とのパートナーシップが必要だとされています。
この協働的なアプローチは、過去のテクノロジー導入の失敗から学んだ姿勢と言えます。教育現場のニーズや実情を無視した技術開発が、結果的に使われないツールを生み出してきた歴史があります。教師や学生を最初から設計プロセスに関与させることで、実際に役立つツールの開発が可能になると考えられます。
さらに、Googleはこれらのツールが実際に望ましい成果を達成していることを確保する必要があると強調しています。研究とエビデンスに基づくアプローチにコミットし、学び、反復し、何が機能していて何が機能していないかについて透明性を持つとされています。
この姿勢は、AI技術の教育分野への適用において、科学的な検証と継続的な改善が重要であることを示しています。教育の効果測定は複雑で長期的な取り組みが必要ですが、そのプロセスに真摯に向き合う姿勢が示されていると言えます。
短期と長期の展望
Ben Gomes氏は、テクノロジーが急速に進化し続けることを認識しつつ、最大の課題は「どのように学ぶか」だけでなく、「AIによって再形成されている未来のために何を学ばなければならないか」にもあると指摘しました。
短期的には、教育を強化するためにAIがどのように効果的に採用されるかを理解する必要があるとされています。しかし長期的には、AIによって形成されている変化する世界に対応するため、AIがどのように教育を変革できるかを理解する必要があると述べられています。
この発言は、AI時代の教育が二重の課題に直面していることを示唆しています。一つは、AIを使ってより効果的に既存の知識やスキルを教えること。もう一つは、AI時代に必要とされる新しい能力や思考方法を教えることです。後者については、まだ明確な答えが見えていない部分も多く、継続的な対話と実験が必要な領域と言えます。
まとめ
GoogleはAIを教育における人間関係を代替するものではなく強化するツールと位置づけ、学習科学に基づいた開発と教育関係者とのパートナーシップを重視する方針を明確にしました。学生へのパーソナライゼーションと教員の負担軽減という可能性を認識する一方で、安全性、正確性、批判的思考、普遍的アクセスという4つの課題、特に新たなデジタル・ディバイド創出のリスクに警戒を示しています。AI時代の教育には、技術の効果的活用と、変化する世界に対応した教育内容の再考という二重の課題があり、継続的な対話が必要とされています。
