はじめに
手首に着けたスマートウォッチやフィットネストラッカーが、将来の健康リスクを教えてくれる。そんな未来がすぐそこまで来ているのかもしれません。近年、ウェアラブルデバイスは私たちの生活に深く浸透し、心拍数や睡眠、活動量といった様々なデータを日々記録しています。もし、これらの身近なデータと、健康診断で得られる一般的な血液検査の結果を組み合わせることで、ある重大な病気のリスクを早期に発見できるとしたらどうでしょうか。
本稿では、Google Researchが発表した「Insulin Resistance Prediction From Wearables and Routine Blood Biomarkers」という研究成果をもとに、ウェアラブルデータとAI技術を活用した2型糖尿病の重要なリスク因子である「インスリン抵抗性」の予測に関する新しいアプローチを解説していきます。
参考記事
- タイトル: Insulin Resistance Prediction From Wearables and Routine Blood Biomarkers
- 著者: Ahmed A. Metwally, A. Ali Heydari
- 発行元: Google Research
- 発行日: 2025年8月6日
- URL: https://research.google/blog/insulin-resistance-prediction-from-wearables-and-routine-blood-biomarkers/
要点
- Googleの研究は、ウェアラブルデバイスのデータ(安静時心拍数、歩数など)と一般的な血液検査結果(空腹時血糖値、脂質など)を組み合わせることで、2型糖尿病の前兆であるインスリン抵抗性を高い精度で予測できることを示したものである。
- この機械学習モデルは、特別な検査ではなく、多くの人が既に持っている、あるいは容易に取得できるデータを利用するため、より手軽で大規模なリスク評価(スクリーニング)に応用できる可能性がある。
- 特に、肥満や運動不足といったハイリスクな人々に対して高い予測性能を発揮し、最も介入を必要とする層を効率的に発見できる可能性を示唆している。
- 本研究では、予測結果をユーザーが理解し、行動変容につなげるためのLLM(大規模言語モデル)を活用した対話型エージェントも開発・評価しており、個別化された健康管理への応用が期待される。
詳細解説
なぜ「インスリン抵抗性」の早期発見が重要なのか?
2型糖尿病には、世界中で数億人が罹患していると言われます。その強力な「前触れ」と考えられているのが「インスリン抵抗性(Insulin Resistance, IR)」です。インスリンは、血液中の糖(血糖)を細胞に取り込ませ、エネルギーとして利用するために不可欠なホルモンです。インスリン抵抗性とは、このインスリンの働きが鈍くなり、血糖値が下がりづらくなっている状態を指します。
この状態が続くと、すい臓はより多くのインスリンを分泌しようと疲弊し、やがては血糖コントロールが効かなくなり、2型糖尿病へと進行してしまいます。しかし、インスリン抵抗性の段階であれば、食事や運動といった生活習慣の改善によって、正常な状態に戻したり、糖尿病への進行を遅らせたりすることが可能です。
問題は、このインスリン抵抗性を正確に測定するための既存の方法です。「正常血糖クランプ法」という最も信頼性の高い方法は、体に負担が大きく研究目的でしか使われません。また、血液検査でインスリン値を測る「HOMA-IR」という指標も、一般的な健康診断の項目には含まれていないことが多く、高価であるため、誰もが気軽に受けられるものではありません。このため、多くの人が気づかないうちにリスクを抱えているのが現状です。

Googleの研究アプローチ:身近なデータでリスクを探る
そこでGoogleの研究チームは、「もっと手軽な方法でインスリン抵抗性のリスクを評価できないか?」と考えました。彼らは「WEAR-ME」と名付けた研究で、米国の1,165人の参加者から以下の3種類のデータを収集しました。
- ウェアラブルデータ: FitbitやGoogle Pixel Watchから得られる安静時心拍数、心拍変動、歩数、睡眠パターンなど。
- 一般的な血液検査データ: 健康診断でもよく測定される空腹時血糖値、HbA1c、コレステロール値など。
- 人口統計データとアンケート: 年齢、性別、身長、体重から計算されるBMI(肥満度指数)など。
そして、これらの膨大なデータを機械学習モデル(特に深層ニューラルネットワーク)に入力し、インスリン抵抗性の指標である「HOMA-IR」の値を予測するモデルを訓練しました。

明らかになった予測モデルの性能
分析の結果、非常に興味深いことがわかりました。それは、複数の種類のデータを組み合わせるほど、予測精度が劇的に向上するということです。
- ウェアラブルデータ + 人口統計データ: ある程度の予測能力を示しました (auROC = 0.70)。
- 上記 + 空腹時血糖値: 精度が大きく向上しました (auROC = 0.78)。
- 上記 + 脂質パネルなど他の血液検査: 最も高い精度を達成しました (auROC = 0.80)。
ここで使われているauROCという指標は、モデルの性能を示すもので、1に近いほど「優れている」と判断されます。0.80という数値は、実用を視野に入れられる高いレベルです。
特に重要だったデータ項目は、BMI、安静時心拍数、そして空腹時血糖値でした。これは、ライフスタイルに関連するウェアラブルのデータが、従来の健康診断データと組み合わせることで、非常に価値のある情報になることを示しています。
さらに重要なのは、このモデルが肥満の人や、座りがちな生活を送る人といったハイリスクな集団で、特に高い精度を示した点です。例えば、肥満かつ座りがちな生活を送る参加者グループでは、インスリン抵抗性を持つ人を93%という高い感度で正しく識別できました。これは、最も予防的な介入が必要な人々を効率的に見つけ出せる可能性を意味します。
予測から理解、そして行動へ:LLMエージェントの役割
しかし、単に「あなたにはリスクがあります」と伝えるだけでは、人々が行動を変えるのは難しいかもしれません。そこで研究チームは、予測モデルと大規模言語モデル(LLM)であるGeminiを統合した「インスリン抵抗性リテラシー・理解エージェント(IR Agent)」という対話型のプロトタイプを開発しました。

このエージェントは、ユーザーが「私は糖尿病になるリスクがありますか?」といった質問をすると、その人のデータ(ウェアラブルや血液検査の結果)と予測されたインスリン抵抗性の状態に基づいて、個別化された分かりやすい解説を提供します。
5人の内分泌専門医がこのエージェントの回答を評価したところ、一般的なLLMの回答に比べて「より包括的で、信頼でき、パーソナライズされている」と圧倒的に高く評価されました。これは、AIが予測を行うだけでなく、ユーザーの健康リテラシーを高め、具体的な行動を促すパートナーとなりうることを示しています。
まとめ
本稿で紹介したGoogleの研究は、私たちが日常的に利用するウェアラブルデバイスと一般的な健康診断のデータが、2型糖尿病という重大な病気の予防において、強力なツールになりうることを示しました。
このアプローチの最大の意義は、体に負担をかけることなく、多くの人が手軽に、そして早期に自身の健康リスクを把握できる点にあります。特に、自覚症状がないままリスクが高まっている人々にとって、生活習慣を見直す大きなきっかけとなるでしょう。
もちろん、このモデルはまだ研究段階であり、医療機器として承認されたものではありません。しかし、AIとデジタルヘルス技術が融合することで、将来的には一人ひとりに寄り添った「予防医療」がさらに身近になるはずです。自分の健康データを正しく理解し、より良い生活習慣につなげていく。そんな時代が、もうすぐそこまで来ていると言えます。