はじめに
AI技術がソフトウェア開発の現場に与える影響について、多くの人が「AIは開発者を高速化する」と信じている中で、必ずしもそうではない可能性が指摘されました。本稿では、ロイター社の記事「AI slows down some experienced software developers, study finds」を基に、特に経験豊富な開発者がAIツールを使うとなぜ作業が遅くなるのか、そしてその背景にある「生産性」だけでは測れないAIの価値について、解説していきます。
引用元記事
- タイトル: AI slows down some experienced software developers, study finds
- 発行元: Reuters
- 発行日: 2025年7月10日
- URL: https://www.reuters.com/business/ai-slows-down-some-experienced-software-developers-study-finds-2025-07-10/
要点
- 経験豊富な開発者が、自身が熟知している大規模なコードベースでAIコーディング支援ツールを使用した場合、タスク完了までの時間が平均19%増加したという研究結果がある。
- この速度低下の主な原因は、AIが提案するコードが「方向性は正しいものの、細部が不正確」であり、開発者がその手直しに時間を費やす必要があったためである。
- 開発者はAIによって作業が速くなったと体感していたが、実際の計測結果とは大きな乖離があった。
- 作業速度は低下したにもかかわらず、多くの開発者はAIツールを使い続けている。その理由は、AIが開発の労力を軽減し、「より快適な開発体験」をもたらすためである。
詳細解説
AIコーディングツールと生産性の神話
AIコーディングツールとは、GitHub Copilotや、今回の研究で使われた「Cursor」のようなツールのことで、開発者がコードを書く際に、次に来るべきコードを予測して提案したり、簡単な指示でまとまった機能のコードを生成したりするものです。
これまで、こうしたAIツールは開発者の生産性を劇的に向上させると考えられてきました。過去の複数の研究では、「AIによってコーディング速度が56%向上した」「時間内に完了できるタスクが26%増加した」といった報告がなされ、AIは特に高給なエンジニアの働きを加速させる切り札として、大きな投資を集めてきました。本稿で紹介する研究は、この「AI=生産性向上」という一般的な通説に一石を投じるものです。
METRによる衝撃的な研究結果
AI研究を行う非営利団体「METR」は、経験豊富なソフトウェア開発者を対象に、非常に興味深い実験を行いました。開発者たちに、彼らが日頃から貢献していて熟知しているオープンソースプロジェクトの作業を、AIコーディングアシスタント「Cursor」を使いながら行ってもらったのです。
驚くべきはその結果でした。実験前、開発者たちはAIを使えば作業時間が平均で24%短縮されると予測していました。さらに、AIを使って作業を終えた後でさえ、彼らは「20%は速くなった」と体感していました。しかし、実際のデータを計測したところ、現実は真逆でした。AIを使ったことで、作業時間は平均で19%も増加していたのです。
なぜAIはベテラン開発者を「遅く」したのか?
この逆説的な結果の背景には、AIの提案の質と、経験豊富な開発者ならではの働き方が関係しています。研究者たちが開発者の作業風景を録画して分析したところ、AIの提案は「方向性としては正しいものの、そのコードベースで求められる要件に完全には一致していなかった」ことが分かりました。
考えてみれば、これは当然かもしれません。大規模で複雑なソフトウェアには、長年培われてきた特有の「お作法」や設計思想があります。経験豊富な開発者は、こうした文脈を深く理解しているため、AIが生成した一見正しそうなコードを見ても、「この書き方では後で問題が起きる」「このプロジェクトの流儀に反している」といった細かな問題点に気づきます。
結果として、彼らはAIの提案をそのまま受け入れることができず、思考を中断してコードをレビューし、手直しするという追加の作業に時間を費やすことになりました。この「AIの提案を修正するコスト」が、AIを使わずにゼロから自分でコードを書く時間を上回ってしまったのです。
「遅くても使いたい」AIがもたらす本当の価値
ここまでの話だと、「AIは熟練者には役に立たないのか」という結論になりそうです。しかし、この研究で最も興味深いのは、作業が遅くなったにもかかわらず、研究参加者の大多数がその後もAIツールを使い続けているという事実です。
研究者たちは、この理由を「生産性」とは別の尺度、つまり「開発体験の向上」にあると分析しています。記事では、この感覚を「白紙のページを見つめるのではなく、エッセイを編集するようなもの」と巧みに表現しています。
コードをゼロから書く作業は、高度な集中力と精神的なエネルギーを要します。一方で、AIが叩き台となるコードを提案してくれれば、開発者は「それをどう修正するか」という、より負担の少ない編集作業に集中できます。たとえ時間的な効率が落ちたとしても、この認知的な負担の軽減が、開発をより楽で、快適なものに感じさせてくれるのです。開発者は、必ずしも「可能な限り速くタスクを終えること」だけを目標にしているわけではない、ということが示唆されています。
まとめ
本稿では、ロイターの記事を基に、METRが行ったAIと開発者の生産性に関する研究を紹介しました。この研究は、経験豊富な開発者が熟知したコードベースで作業する場合、AIツールの使用が逆に作業時間を増加させる可能性があるという、事実を明らかにしました。
この結果は、AIと人間の協業が、単に「速さ」という一面的な指標だけでは測れないことを示しています。AIは、作業の文脈や開発者のスキルレベルによって、その価値を大きく変えるのです。
そして何より重要なのは、AIがもたらす価値が「生産性の向上」だけにあるのではない、という点です。たとえ時間を要したとしても、開発者の認知的な負担を減らし、開発という創造的なプロセスをより快適なものに変えてくれるならば、それはツールとして十分に価値があると言えるでしょう。AIを単なる「高速化ツール」ではなく、人間の能力を補完し、拡張する「協働パートナー」としてどう活用していくか。本研究は、その未来を考える上で非常に重要な示唆を与えてくれます。