はじめに
本稿では、米TIME誌に掲載された記事「Former Scale AI CEO Alexandr Wang on AI’s Potential and Its ‘Deficiencies’」を基に、AI業界の最重要人物の一人であるアレクサンダー・ワン氏の洞察を解説します。
ワン氏は、AIモデルの学習データを扱うユニコーン企業「Scale AI」を創業し、28歳という若さでMeta社の超知能開発部門のトップに就任した起業家です。彼の言葉から、AIの華やかな進化の裏側にある「データ」をめぐる本質的な課題について理解できます。
引用元記事
- タイトル: Former Scale AI CEO Alexandr Wang on AI’s Potential and Its ‘Deficiencies’
- 発行元: TIME
- 発行日: 2025年6月22日
- URL: https://time.com/7296215/alexandr-wang-interview/



要点
- AI開発の進歩は、「データ」「計算能力」「アルゴリズム」の3本柱に依存するが、その中でも「データ」こそが最も重要なボトルネックの一つである。
- AIモデルは一見すると非常に賢く見えるが、実際の業務に適用しようとすると多くの「欠陥(deficiencies)」が露呈する。
- AIの「欠陥」を克服し、モデルを継続的に改善するためには、人間による高品質なデータ作成・ラベリング(アノテーション)作業が不可欠であり、AIが賢くなるほど、その需要は増大していく。
- 将来的には、AIが自律的に経済活動を行う「エージェント的世界」が到来し、ビジネスから行政、安全保障に至るまで、社会のあらゆる側面が根本的に変容する可能性がある。
- AI開発における米中の覇権争いは激化しており、技術は経済だけでなく国家安全保障上の重要課題となっている。
詳細解説
アレクサンダー・ワン氏とは何者か?
まず、本稿の主役であるアレクサンダー・ワン氏についてご紹介します。彼は19歳でマサチューセッツ工科大学(MIT)を中退し、AI開発に不可欠な「教師データ」を作成・提供する企業「Scale AI」を共同で創業しました。この会社は急成長を遂げ、彼は24歳にして「自力で富を築いた世界最年少の億万長者」として一躍有名になりました。
そして2025年6月、彼はScale AIのCEOを退任し、Facebookを運営するMeta社が新設した「超知能(superintelligence)」部門の責任者に就任することが発表されました。これは、人間を超える知能を持つAIの開発を目指すという、極めて野心的な挑戦です。この記事は、彼がMetaへ移籍する直前の4月に行われたインタビューを基に構成されています。
AI開発の「心臓部」- なぜ「データ」が最重要なのか
ワン氏は、AIの進歩を支える要素を「データ」「計算能力(コンピュート)」「アルゴリズム」の3本柱だと定義しています。この中で、彼は特に「データ」がAI開発における最大の課題(ボトルネック)の一つだと繰り返し強調します。
なぜデータがそれほど重要なのでしょうか。AI、特に現在の主流である機械学習モデルは、いわば膨大な量の教科書を読み込んで賢くなるデジタルな生徒のようなものです。例えば、AIに猫の画像を認識させるためには、何百万枚もの「これは猫です」と正しくラベル付けされた猫の画像(=教師データ)を見せる必要があります。この地道なラベル付け作業を「データアノテーション」と呼びます。
ワン氏が創業したScale AIは、まさにこのデータアノテーションを、テクノロジーを駆使して効率的かつ高品質に行うことで、GoogleやOpenAIといった巨大IT企業のAI開発を支えてきました。ワン氏は、Scale AIが成功した理由を「データを第一級の問題として扱ったからだ」と語っています。AIの性能は、学習するデータの質と量に根本的に依存するため、データを軽視しては真の進歩はあり得ない、という彼の信念がここに表れています。
AIは万能ではない – ワン氏が語る「AIの欠陥」
ChatGPTなどの登場により、AIはあたかも人間のように自然な文章を生成し、万能であるかのような印象を与えています。しかしワン氏は、AIの実用性について冷静な見方を示します。
「AIモデルを遠くから目を細めて見れば、とても賢そうに見える。しかし、実際に自分の仕事の重要なワークフローで使ってみると、それが非常に欠陥のある(quite deficient)ものだと気づくだろう」
これは非常に重要な指摘です。例えば、汎用的なチャットでは流暢なAIも、医療画像の診断や、特定の企業の社内ルールに基づいた問い合わせ対応など、専門的で精密さが求められるタスクでは、途端に間違いを犯しやすくなります。この「間違い」や「できないこと」こそが、ワン氏の言うAIの「欠陥」です。
そして、この「欠陥」を埋めるために何が必要かというと、それこそが人間による更なるデータアノテーションなのです。「この診断は間違い」「この社内ルールでは、こちらの対応が正しい」といった新しい教師データをAIに与え続けることで、AIは少しずつ賢くなっていきます。ワン氏は、「AIデータに関する仕事は、モデルがそのデータが対象とする領域で優れていないからこそ必要になる」と述べ、AIが社会の隅々にまで応用されればされるほど、新たな「欠陥」が見つかり、それを修正するためのデータアノテーションの需要は無くなるどころか、むしろ増え続けると予測しています。
未来予測:「エージェント的世界」の到来
ワン氏は、AIがさらに進化することで、私たちの社会が「エージェント的世界(agentic world)」へと移行すると予測しています。これは、AIが単なるツールではなく、自律的に判断し、経済活動を行う「エージェント」として機能する世界です。
人間はAIエージェントの管理者や監督者のような役割になり、多くの経済活動がAIによって担われるようになるといいます。彼は「企業はエージェント的企業に、政府はエージェント的政府に、そして戦争はエージェント的戦争になる」と述べ、その影響が社会のあらゆる側面に及ぶことを示唆しています。このような大きな社会変革を、いかに混乱を最小限に抑えながら成し遂げるかが、今後の大きな課題になると彼は考えています。
まとめ
本稿では、TIME誌のアレクサンダー・ワン氏へのインタビュー記事を基に、AI開発の最前線における重要な論点を解説しました。
ワン氏の言葉から見えてくるのは、AIの目覚ましい進歩は、決して魔法によってもたらされたものではなく、その裏側で「データ」という石油を精製し続ける、地道で膨大な営みに支えられているという事実です。そして、AIは決して万能ではなく、常に「欠陥」を抱えた存在であること、その「欠陥」を人間が粘り強く修正し続けることによってはじめて、AIは真に社会の役に立つツールへと進化していくということが分かります。
人間を超える知能を目指すという壮大なビジョンを掲げ、Meta社へと移籍したワン氏。彼がこれからどのようなアプローチで「超知能」と、その根幹をなす「データ」の問題に取り組んでいくのか。彼の動向は、今後のAIの未来を占う上で、引き続き世界中から注目を集めることになるでしょう。