はじめに
本稿では、英The Guardianが報じた「Trump’s plan to ban US states from AI regulation will ‘hold us back’, says Microsoft science chief」という記事を基に、現在アメリカで議論されているAI(人工知能)規制の動向について、その背景や論点を詳しく解説します。
AI技術が社会に急速に浸透する中で、「規制」が技術の発展を妨げるのか、それとも促進するのか。巨大IT企業の科学責任者の発言から、この問題の本質に迫ります。
引用元記事
- タイトル: Trump’s plan to ban US states from AI regulation will ‘hold us back’, says Microsoft science chief
- 著者: Robert Booth
- 発行元: The Guardian
- 発行日: 2025年6月22日
- URL: https://www.theguardian.com/technology/2025/jun/22/trump-ban-us-states-ai-regulation-microsoft-eric-horvitz



要点
- ドナルド・トランプ前大統領は、米国各州が独自のAI規制を導入することを10年間禁止する法案を提案している。
- これに対し、マイクロソフトのチーフサイエンティストであるエリック・ホーヴィッツ博士は、規制の禁止はAIの発展を加速させるどころか、むしろ「技術を後退させる」と警告した。
- ホーヴィッツ博士は、適切なガイダンスや信頼性の管理といった規制こそが、科学の進歩と社会実装を促進し、結果的に分野の発展を速めるものであると主張する。
- この発言は、マイクロソフト自身が他の巨大テック企業と共に、この州レベルの規制禁止案を支持するロビー活動を行っているとの報道と矛盾しており、企業の内部でも意見が分かれている可能性を示唆している。
- 規制禁止案の背景には、中国とのAI開発競争で後れを取りたくないという国家的な懸念と、規制はイノベーションを阻害すると考える投資家からの強い圧力がある。
詳細解説
トランプ前大統領が提案する「AI規制禁止法案」とは?
まず、議論の中心となっている提案内容を見てみましょう。トランプ前大統領が推し進める法案は、「AIモデル、AIシステム、または自動意思決定システムを制限、規制する、いかなる法律や規制」も、米国の各州が独自に作ることを10年間にわたって禁止する、というものです。
この背景には、主に二つの大きな動機があります。一つは、中国との熾烈なAI覇権争いです。米国内で規制の議論に時間を費やしている間に、国家主導で開発を進める中国に決定的な差をつけられてしまうのではないか、という強い危機感です。もう一つは、フェイスブックの初期投資家としても知られるアンドリーセン・ホロウィッツのような、有力なテック投資家からの圧力です。彼らは、州ごとにバラバラな規制(いわゆるパッチワーク規制)が生まれると、ビジネスの足かせとなり、技術革新のスピードが鈍ってしまうと主張しています。
「規制は技術を後退させる」- マイクロソフト科学責任者の警告
このような「規制は悪である」という風潮に対し、AI研究の第一人者であり、マイクロソフトのチーフサイエンティストを務めるエリック・ホーヴィッツ博士は、真っ向から異を唱えました。彼は「規制の禁止は我々を後退させる」と述べ、その理由を次のように説明しています。
ホーヴィッツ博士は、AIが「誤情報や不適切な説得」に利用されたり、「生物学的な危険性といった悪意のある活動」に使われたりすることへの強い懸念を示しています。そして、このようなリスクを管理するための「ガイダンス、規制、信頼性のコントロール」こそが、AIという分野をより速く前進させると主張するのです。
これは、例えば自動車産業の歴史を考えると分かりやすいかもしれません。シートベルトやエアバッグ、排ガス規制といった厳しい安全・環境基準が設けられたことで、自動車メーカーはより安全で高性能な技術を開発するようになり、結果として産業全体が大きく発展しました。ホーヴィッツ博士の主張は、AIにおいても同様に、適切なルール作りが技術の信頼性を高め、社会実装を加速させるという考えに基づいています。
巨大テック企業の「矛盾」- 科学倫理と企業利益の狭間
今回の件で非常に興味深いのは、ホーヴィッツ博士のこの発言が、所属するマイクロソフトの動きと矛盾しているように見える点です。記事によると、マイクロソフトはGoogle、Meta、Amazonといった他の巨大テック企業と共に、まさにこの「州レベルのAI規制禁止」を支持するロビー活動を議会に対して行っていると報じられています。
この一見矛盾した状況は、AI開発が直面している複雑な現実を浮き彫りにします。
- 科学者・技術者としての視点: ホーヴィッツ博士のように、現場の研究者は技術がもたらすリスクを深く理解しており、安全な開発と利用のためのガードレール(規制)の必要性を感じています。
- 企業としての視点: 一方で、企業としては、州ごとに異なる複雑な規制に対応するコストを避け、ビジネス展開をスムーズに進めたいという経済的な判断があります。連邦レベルで統一された、ビジネスフレンドリーなルールを望むのは自然な動きとも言えます。
つまり、ホーヴィッツ博士の発言は、巨大テック企業の内部に存在する「科学倫理」と「企業利益」という二つの価値観の間の緊張関係を映し出しているのかもしれません。
「人類滅亡のリスク」- 止まらないAI開発競争
議論はさらに深刻なレベルにまで及んでいます。カリフォルニア大学バークレー校のスチュアート・ラッセル教授は、「開発者自身が10%から30%の確率で人類の滅亡を引き起こす可能性があると言う技術のリリースを、なぜ我々は意図的に許可するのでしょうか?」と、極めて強い言葉で警鐘を鳴らしています。
これは、人間のように自律的に学習し、あらゆる知的作業をこなすAGI(汎用人工知能)や、それを超える「超知能」の出現を念頭に置いた発言です。マイクロソフトが140億ドルを投資するOpenAIや、Metaのマーク・ザッカーバーグCEOが巨額の投資を発表するなど、企業間の開発競争は過熱する一方です。この競争が、リスクに対する慎重な議論よりも開発のスピードを優先させる危険な状況を生み出している、と専門家たちは懸念しているのです。
まとめ
本稿では、The Guardianの記事を基に、米国のAI規制を巡る最新の動向について解説しました。トランプ前大統領が提案する「州レベルでの規制禁止」という大胆な動きは、AI開発における「スピード」と「安全性」のどちらを優先するべきか、という根源的な問いを私たちに突きつけています。
マイクロソフトのチーフサイエンティスト、ホーヴィッツ博士の「適切な規制こそが技術発展を速める」という主張は、規制を単なる足かせと見なす単純な議論に一石を投じるものです。また、企業としてのロビー活動と、科学責任者の倫理的な警告が同時に存在する事実は、この問題がいかに多面的で複雑であるかを示しています。
AIという強力な技術と社会がどのように向き合っていくべきか。これはもはや米国だけの問題ではありません。世界的なルール作りの動向を注視し、日本としてどう関わっていくべきかを考える上で、今回の議論は非常に重要な示唆を与えてくれると言えるでしょう。