[ニュース解説]AI偽バイデン声事件、刑事裁判で「無罪」:その裏にある法と技術の落とし穴とは?

目次

はじめに

 近年、急速に進化するAI(人工知能)技術は、私たちの生活に多くの恩恵をもたらす一方で、新たな社会的課題も生み出しています。その中でも、AIによって生成された偽の音声や映像が、選挙という民主主義の根幹を揺るがしかねない事態が現実のものとなりました。

 本稿では、2024年のアメリカ大統領予備選挙で、AIが生成した偽のバイデン大統領の声を使った「ロボコール(自動音声電話)」が有権者にかけられた前代未聞の事件について、その後の裁判の結果を報じたアメリカのニュースサイトWMURの記事「Man found not guilty on all counts at trial over AI robocalls sent to New Hampshire primary voters」を基に、事件の背景や技術的な側面、そして法的な意味合いを解説します。

引用元記事

要点

  • AIで生成した偽のバイデン大統領の音声ロボコールを流した政治コンサルタントが、刑事裁判において「有権者抑圧」と「候補者なりすまし」の全ての訴因で無罪の評決を受けた。
  • 被告は、AI技術の危険性について世間に警告を鳴らすことが目的であったと主張している。
  • 弁護側は、問題となった予備選挙が民主党全国委員会(DNC)から承認されておらず、法的に保護されるべき選挙ではなかったと反論した。
  • 刑事裁判の無罪評決とは別に、連邦通信委員会(FCC)が被告に対して課した600万ドル(日本円で約9億4000万円)の民事罰は依然として有効である。

詳細解説

事件の概要:AIによる前代未聞の選挙介入

 本件は、2024年1月に行われたアメリカ大統領予備選挙の直前、ニューハンプシャー州で発生しました。多くの有権者のもとに、現職のジョー・バイデン大統領の声をそっくりに真似たAI音声による電話が自動でかかってきました。その内容は「11月の本選挙のために、今回の予備選では投票しないでください」という、投票を思いとどまらせることを目的とした偽の情報でした。

 この電話を仕掛けたとされるのが、政治コンサルタントのスティーブン・クレイマー氏です。彼は、AI音声合成技術を使い、意図的に有権者を混乱させようとしたとして、「有権者抑圧」と「候補者なりすまし」の罪で起訴されました。しかし、驚くべきことに、刑事裁判の陪審員団は彼に対して全ての訴因で無罪の評決を下したのです。

なぜ刑事裁判で「無罪」になったのか?

 なぜ、明らかに選挙を妨害するような行為が、刑事裁判で罪に問われなかったのでしょうか。そこには、アメリカの法律と今回の選挙が置かれた特殊な状況が関係しています。

 被告の弁護団は、裁判で「そもそも、このニューハンプシャー州の予備選挙は、民主党の全国組織であるDNC(民主党全国委員会)が公式に認めたものではなかった」と主張しました。つまり、法的に保護されるべき「公式な選挙」ではなかったため、有権者の投票を妨げる「有権者抑圧」という罪は成立しない、という論理です。この主張が、陪審員の判断に影響を与えた可能性があります。

 また、「候補者なりすまし」についても、現行の法律がAIによる高度な音声模倣を想定して作られていないという法の不備が指摘されています。表現の自由との兼ね合いもあり、単に声を真似ただけでは、直ちに犯罪と認定することのハードルが高かったのかもしれません。

重要ポイント:刑事裁判の「無罪」と民事罰「9億円」は別問題

 本件を理解する上で最も重要なのが、刑事裁判と民事裁判の違いです。クレイマー氏は刑事裁判では無罪となりましたが、それとは全く別に、FCC(連邦通信委員会)から600万ドル(約9億4000万円)という巨額の民事罰を科されています。この決定は、刑事裁判の結果にかかわらず有効です。

  • 刑事裁判: 国や州が、法律で禁止された行為(犯罪)に対して罰則(懲役や罰金など)を科すための手続きです。検察官が「合理的な疑いの余地なく」有罪であることを証明する必要があり、立証のハードルが非常に高いのが特徴です。
  • 民事裁判: 個人や団体間の争い(損害賠償など)を解決するための手続きです。FCCのような政府機関が、法律違反に対して罰金を科す場合もこれに含まれます。刑事裁判よりも緩やかな「証拠の優越」という基準で判断されます。

 つまり、クレイマー氏の行為は「犯罪」とまでは断定されなかったものの、FCCの管轄する通信法(迷惑なロボコールを規制する法律)には明確に違反しており、その対価として巨額の支払いが命じられた、ということです。

被告の動機:「AIへの警告」という確信犯的犯行

 クレイマー氏本人は、一連の行動の動機について「AI技術がもたらす危険性について、世間に警鐘を鳴らしたかった」と語っています。彼は、わずかな費用と経験で、これほど大きな騒ぎを起こせることを見せつけ、社会に衝撃を与えることを狙ったのです。

 彼の行為は決して許されるものではありませんが、結果として、AIによる偽情報が、いかに簡単に、そして深刻な形で民主主義を脅かす可能性があるかを、世界中に知らしめることになりました。この事件は、技術の進化に社会や法律が追いついていない現状を浮き彫りにした象徴的な出来事と言えるでしょう。

まとめ

 本稿では、AIで生成された偽のバイデン大統領の声によるロボコール事件と、その刑事裁判で下された無罪評決について解説しました。

 この事件は、現行の選挙法や関連法規が、AIという新たな技術の脅威に十分対応できていないという厳しい現実を私たちに突きつけています。刑事裁判では無罪という驚くべき結果になりましたが、一方で、規制当局による高額な民事罰は科されており、社会的な制裁が機能した側面もあります。

 この問題は、対岸の火事ではありません。日本においても、いつ同様の事件が発生してもおかしくない状況です。私たちはこのアメリカの事例から学び、AI技術の悪用を防ぐための法整備や、偽情報を見抜くためのデジタル・リテラシー教育の重要性を、社会全体で真剣に議論していく必要があります。AIと共存する未来に向けて、私たちは今、重大な岐路に立たされているのです。

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