はじめに
本稿では、20世紀最大の考古学的発見と称される「死海文書」の年代測定に、AI(人工知能)という最先端技術が新たな光を当てたことについて、米CNNが2025年6月7日に報じた「AI analysis of ancient handwriting gives new age estimates for Dead Sea Scrolls」という記事をもとに解説します。
引用元記事
- タイトル: AI analysis of ancient handwriting gives new age estimates for Dead Sea Scrolls
- 著者: Jacopo Prisco
- 発行元: CNN
- 発行日: 2025年6月7日
- URL: https://edition.cnn.com/2025/06/07/science/dead-sea-scrolls-older-ai-carbon-dating
要点
- AIと最新の放射性炭素年代測定を組み合わせた研究により、死海文書の一部が従来説より最大100年古い可能性が示された。
- この研究で開発されたAI「Enoch(エノク)」は、写本の筆跡を高解像度画像から学習し、その特徴から年代を推定するものである。
- AIは、年代情報を伏せたテストで85%の正解率を示し、その有効性が確認された。
- この技術は、資料を破壊してしまう放射性炭素年代測定を補完、あるいは代替する可能性のある非破壊的な年代測定法として大きな期待が寄せられている。
- 研究成果は、死海文書の成立過程や、それが書かれた時代の初期ユダヤ教、ひいては初期キリスト教の歴史認識に重要な影響を与える可能性がある。
詳細解説
死海文書とは?― 20世紀最大の考古学的発見
まず、本稿のテーマである「死海文書」について簡単にご説明します。死海文書は、1947年に死海の北西にあるクムラン洞窟で、ベドウィンの羊飼いによって偶然発見された古代の写本群です。その後の調査で、11の洞窟から数万点の文書の断片が見つかりました。
これらの文書には、現在私たちが知る旧約聖書の最古の写本をはじめ、聖書には含まれなかった「外典」や、クムラン教団と呼ばれる共同体の規則や儀式について書かれたものなどが含まれています。これらは紀元前3世紀から紀元後1世紀頃に書かれたとされ、当時のユダヤ教の多様な姿や、後のキリスト教へとつながる思想の源流を知る上で、他に類を見ない第一級の歴史資料とされています。
これまでの年代測定法とその課題
死海文書のような古文書の年代を特定するには、主に2つの方法が用いられてきました。
- 古文書学(Paleography)
これは、文字の形や書体のスタイルの変遷から年代を推定する学問です。専門家が長年の経験と知識に基づいて「この時代の文字はこういう特徴がある」と判断します。非常に重要な手法ですが、どうしても研究者の主観が入り込む余地があるという側面も持っていました。 - 放射性炭素年代測定(炭素14法)
こちらはより科学的な手法です。生物が生きて活動している間は、体内に放射性炭素である「炭素14」を一定の割合で取り込み続けますが、死後は新たな取り込みがなくなり、体内の炭素14は一定の速度で崩壊していきます。この残存量を測定することで、その生物が死んだ年代(この場合は、写本の材料となった羊皮紙の羊や、パピルスの植物が刈り取られた年代)を特定できます。
しかし、この方法にも大きな課題が2つありました。- 破壊的であること: 測定には資料の一部(数ミリグラム)を切り取って燃やす必要があり、貴重な文化遺産を物理的に損なってしまうという大きな欠点があります。
- 汚染物質の影響: 記事によると、1950年代の研究者たちが文書の文字を読みやすくするためにヒマシ油を塗布していました。この現代の油が汚染物質となり、炭素14の測定結果を実際よりも新しい年代に歪めてしまうという問題がありました。
AIが解き明かす新たな年代 ― 最新研究の核心
今回、オランダのフローニンゲン大学の研究チームは、これらの課題を乗り越えるために、AIを駆使した革新的なアプローチを取り入れました。そのプロセスは、以下の3つのステップで構成されています。
ステップ1:最新技術による放射性炭素年代測定のやり直し
研究チームはまず、ヒマシ油のような現代の汚染物質の影響を精密に取り除く最新の技術を用いて、30の写本サンプルで放射性炭素年代測定を改めて実施しました。これにより、非常に精度の高い年代データを得ることに成功しました。
ステップ2:AI「Enoch(エノク)」の訓練
次に、この正確な年代データと、それに対応する写本の高解像度画像を、研究チームが開発したAI「Enoch」に学習させました。「Enoch」という名前は、旧約聖書に登場する人物から名付けられています。AIは、文字の形、線の太さ、インクのかすれ具合、文字と文字の間隔といった、人間が一つ一つ定義するのが難しい無数の筆跡の特徴を自ら学び、「どのような筆跡が、どの年代に対応するのか」というパターンを膨大な計算によって把握していきました。
ステップ3:AIによる年代予測と驚くべき成果
十分に学習を終えたAI「Enoch」の実力を試すため、研究チームは年代情報を伏せた状態で、AIが学習していない別の写本の画像を見せました。その結果、AIは85%という高い精度で年代を正しく予測したのです。
さらに、まだ放射性炭素年代測定が行われていない135の写本を分析させたところ、そのうちの79%で、古文書学の専門家から見ても「現実的」と考えられる年代を提示しました。この結果、これまで紀元前2世紀頃のものと考えられていた『ダニエル書』の写本などが、最大で100年ほど遡り、紀元前3世紀、あるいは4世紀末にまで及ぶ可能性があることが示唆されたのです。これは、写本が書かれた時期が、その著者本人が生きていた時代にさらに近づくことを意味し、歴史的に非常に大きな意味を持ちます。
研究がもたらすインパクトと今後の展望
この研究成果は、単に「年代が少し古くなった」という話に留まりません。
- 歴史理解の深化: 聖書の各文書がいつ頃成立し、どのように書き写され、読まれていったのかという、聖書本文の変遷や思想の伝播に関する理解が、より正確になる可能性があります。
- 非破壊分析という未来: 最も重要なのは、AIによる分析が文化遺産を一切傷つけない非破壊的な手法である点です。今後、この技術の精度がさらに向上すれば、貴重な古文書を切り取る必要がなくなり、放射性炭素年代測定を補完、あるいは代替する有力なツールになるかもしれません。研究リーダーのポポヴィッチ教授は、この技術をシリア語、アラビア語、ギリシャ語、ラテン語など他の言語の写本分析にも応用できると考えています。
本稿で紹介した研究は、まさに「デジタル古文書学」とでも呼ぶべき新しい分野の幕開けを告げるものであり、AIが人文科学や考古学の領域で強力なツールとなり得ることを明確に示しています。
まとめ
本稿では、CNNの記事を基に、AIを用いた死海文書の新たな年代測定に関する画期的な研究について解説しました。
この研究は、AIの高度な画像解析能力と、改良された放射性炭素年代測定という2つの技術を融合させることで、死海文書の一部がこれまで考えられていた定説を覆し、より古い時代のものである可能性を突き止めました。開発されたAI「Enoch」は、人間の専門家でも見抜けない筆跡の微細な特徴から高精度に年代を推定し、貴重な文化遺産を傷つけることなく分析する非破壊的な手法の有効性を示しました。
この技術の進展は、死海文書研究に新たな地平を切り開くだけでなく、世界中の古文書を対象とした歴史学や考古学全体の未来に、大きな影響を与える画期的な一歩と言えるでしょう。